~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
げい べつ (五)
官軍の陣所になっている百姓家まで、ひとすじの田ンぼ道がつづいている。
近藤は、部下二人に先導させ、ゆっくり草を踏みながら歩いた。
やがて、柴垣しばがきをめぐらしたその百姓家の前へ来た。官兵が銃を擬して、さえぎると、
「軍使です」
とおさえ、隊長に会いたいと言った。
やがて、座敷に案内された。
「大久保大和です」
と、近藤は言った。
有馬は、薩人らしいやわらかな物腰で、用件を訊いた。
そばに、香川敬三がいる。
有馬も香川も、近藤の顔は知らない。しかしその特異な風貌ふうぼうは、聞き知っている。
(まぎれもない。──)
香川の眼が青く光った。
「今朝来」
と近藤は言った。
「官軍と気づかず、部下の者が不用意に発砲しました。おわびに来たのです」
「あれは不都合でごわしたど。御事情もありそが、いずれにせよ、お申しひらきは、ご足労ながら粕癖の本陣でしていただかねばならぬ。それに、ただちに銃砲を差し出されたい」
「承知しました」
とうなずいた近藤の心境は、歳三にはわからない。
「一たん、帰営の上で」
と、近藤は戻って来た。
 
歳三は、激論した。
ついに、泣いた。よせ、よすんだ、まだ奥州がある、と歳三は何度か怒号した。最後に、あんたは昇り坂のときはいい、くだり坂になると人が変わったように物事を投げてしまうまで攻撃した。
「そうだ」
と近藤はうなずいた。
「賊名を残したくない。私は、お前と違って大義名分を知っている」
「官と言い賊と言うも、一時の事だ。しかし男として降伏は恥ずべきではないか。甲州百万石を押さえに行く、と言っていたあの時のあんたに戻ってくれ」
「時が、過ぎたよ。おれたちの頭上を通り越して行ってしまった。近藤勇も、土方歳三も、古い時代の孤児となった」
「ちがう」
歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外である。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三は言った。
が、近藤は静かに言った。おれは大義名分に服することに美しさを感ずるのさ。歳、長い間の同志だったが、ぎりぎりのところで意見が割れたようだ。何に美しさを感ずるか、ということで。
「だから歳」
近藤は言った。
「おめえは、おめえの道を行け。おれはおれの道を行く。ここで別れよう」
「別れねえ。連れて行く」
歳三は、近藤のき腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手をでた。
「世話になった」
「おいっ」
「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解き放って、自由にさせてくれ」
「・・・・」
歳三は、近藤の顔を見た。
茫然ぼうぜんとした。
「行くよ」
近藤は、庭へおりた。おりるとその足で酒倉へ行き、兵に解散を命じ、さらに京都以来の隊士を数人集めて、
「みな、自由にするがいい。私も、自由にする。みな、世話になった」
近藤は、再び門を出た。
歳三は追わなかった。
(おれは、やる)
ぴしゃっ、と顔を叩いて、脚の黒々とした藪蚊やぶかがつぶれている。
2024/05/13
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