話はかわる。
慶応四年(明治元年)四月十日のことだ。
その丑満の「第二時」というから、ただしくは十一日であろう。
駿河台の旗本屋敷の門から吐き出された黒い影がある。
三人。
ひとりは従僕で、行李をかついでいる。一人は綿服の壮士。
ひとりは、この旗本屋敷の主人で、としのころは三十六、七、黒羽二重の紋服、仙台平の袴、韮山笠をかぶって、傘を柄高にもっている。
前夜来の雨が、降り止まない。
「木村(隆吉)君、わるい日に出陣だな」
旗本は、苦笑した。
それっきりしばらく口をきかず、昌平橋を渡った。浅草葺屋町に出、大川橋を過ぎ、やがて向島小梅村の小倉庵まで来た。
「このあたりが、集合場所だと申していたが。木村君、向うの豆腐屋できいてみな」
豆腐屋なら、もう起きているだろう。
門人らしい木村が、走った。が、すぐ戻って来た。
「わからぬ、というのです」
「おかしい。洋服姿の男が四、五百人も参集するのいだ。近所がわからぬというはずがあるまい。自身番を起こしてみなさい」
旗本は、雨の中で待っている。
白皙、ひたい広く、鼻すじ通って、りゅうとした美男子である。
自身番では、幕府の歩兵服を着た連中が、四、五人ざこ寝をしていた。
木村に起こされて、あっと飛び起きた。
「いや、お待ちしていたのです。ついまどろんでしまって」
「先生は、表でお待ちだ」
「そうですか」
歩兵たちは出て、「先生」という人物に、仏式の敬礼をした。
「ふむ」
先生は、あごをひいた。
「ご案内します。そこの報恩寺です」
雨中を歩きだした。
先生、というのは、幕府の歩兵頭大鳥圭介(のち新政府に仕え、工部大学長、学習院長、清国駐箚特命全権公使、枢密顧問官、男爵、明治四十四年没、齢八十)である。
維新の時反政府戦に参加した多くの幕臣と同じように彼も譜代の旗本ではない。
播州赤穂の村医の子である。
大坂の尾形洪庵塾で蘭学を学び、とくに蘭式陸軍に興味を持ち、軍制、戦術、教練、築城術の翻訳をするうち幕府に認められ、二年前の慶応二年、幕府直参に取り立てられた。この幕府を後援する仏軍皇帝ナポレオン三世が歩騎砲工の将校二十数人を軍事教師団として派遣して来たので、この訓練を受けた
やがて大鳥は幕府の歩兵頭に取り立てられ、仏式歩兵を指揮することになった。
やがて幕府は瓦解した。
「ばかな」
とたれよりも思ったのは、大鳥ら、仏式幕軍の将校たちであろう。彼らは、たれよりも幕軍の新式陸海軍が、装備の点で十分に薩長に対抗出来ることを知っていた。
陸軍の松平太郎、海軍の榎本武揚が、あくまでも江戸開城に反対したのは当然の事であったろう
彼ら陸海将領はひそかに江戸籠城を企画したが、上野に謹慎中の前将軍慶喜がこれを聞き松平らを呼び、
── 卿らの武力行動は、わが頭に白刃を加えるのとおなじである。
と諭したため、籠城の挙だけは止んだ。
そのため彼らは開城直前に江戸を脱走することに決め、かつ実行した。
大鳥圭介が、駿河台の屋敷を出て、向島の秘密屯集場所にやって来たのも、そのためである。
ふたたび日付を繰り返すが、この日は四月十一日。
陽はまだ昇らない。
朝になり、正午になれば、江戸城は官軍の受領使に明け渡されるはずであった。
その直前に、幕府歩兵部隊は大量に江戸を脱走することになったわけである。
報恩寺には将校(指図役)三、四十人、歩兵四、五百人が集まっていた。
歩兵頭大鳥は、当然その司令官になった。部下の人数は行くに従って増えるであろう。 |
