~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
城 攻 め (二)
すでには落ちようとしていたが、歳三は、すぐ出発した。
部下は洋式訓練をあなり経ていない桑名藩兵を先鋒せんぽうとし、伝習隊、回天隊の一部がこれにつづいた。
副将は、会津藩士秋月登之助である。
夜行軍してその夜は街道の民家に分宿し、翌日は宇都宮城下へ四里、という鬼怒川きぬがわ東岸の蓼沼たでぬまに宿営して、ここを攻撃準備地とした。
「秋月君、あなたは宇都宮を御存じか」
と歳三は言った。
秋月は会津藩士だけに、かつての新選組副長をひどく尊敬してる。
「行ったことがありますが、まさか戸田土佐守七万七千石を攻めるつもりで行ったわけではないから、覚えていませんな」
歳三もめずらしく笑い、
「私は講釈の宇都宮釣り天井で知っている程度です」
と言った。
歳三は、土地の者を連れて来させて、出来るだけ詳細な地図をつくりあげ、城のほり、付近の地形、街路を丹念に聞いた。
「これァ、城の東南から攻めればちるな」
と、小さくつぶやいた。
宇都宮城は、大手の方は濠も深く、やぐらからの射角も工夫されていてなかなか堅固だが、歳三の表現では、
わきっ腹が、なっていない」
のである。城の東南部のことであった。このあたりは雑木林、竹藪たけやぶが多く、城からの射撃を防ぎやすい。さらにこの方角は堤も低く、濠の水もからからに干あがっている。
「大手へは、敵の注意をひきつける程度の人数を差し向け、主力は間道を通ってこの雑木地帯から攻めることにしよう」
翌未明、軍を発した。
馬上、歳三は、
(近藤は、板橋本営に連れて行かれたというが、はたして無事か)
ということが、念頭を離れない。
とにかく下総流山の敵が、今は下野宇都宮城に拠っているのだ。
撃滅して捕虜をればなんとか消息がわかるだろう。
城には、薩摩人有馬藤太、水戸人香川敬三が、諸方からけ戻って来る騎馬斥候せっこう諜者ちょうじゃの報告に、一喜一憂している。
報告はすべて、小山から飯塚に出て壬生城下に進んでいる大鳥圭介指揮の本隊の動静に関するものばかいである。
まさか、西南の蓼沼に歳三らの小部隊が頭を出しはじめているとは気づかない。
「江戸脱走隊」
と大鳥軍のことを呼んでいた。
「おそらく脱走隊は、宇都宮を避け、間道をつたって鹿沼かぬまへ出、そこから日光に行くつもりだろう」
と有馬も香川もみていた。
「そうすれば、黙って行かせるしか仕方がない」
有馬は出戦をあきらめていた。
なにしろ、宇都宮城の官軍と言えば、指揮官こそ薩人有馬藤太だが、兵は、薩長土の精鋭ではなく、戦えば敗けるという旧式装備の彦根藩兵三百である。
この有馬隊は、ほんの支隊なのだ。彼らの本隊である官軍東山道部隊は、板橋を本営としてまだ動いていない。
脱走隊の隊長は、大鳥圭介らしい」
という噂は、耳に入っている。幕軍きっての洋式陸軍の権威で、その脱走兵のほとんどは、洋式歩兵だというのだ。有馬が預かっている彦根藩兵では勝てるはずがない。
「時代がかわったものだ」
と、有馬藤太は言った。
彦根の井伊家といえば、家康の頃は、
井伊の赤備あかぞな
といって天下に精強をうたわれたものであえる。家康の徳川軍団は、関ヶ原以後譜代筆頭井伊と外様とざま藤堂とうどうをもって先鋒とする、というたてまえになっており、大坂冬、夏ノ陣では、この両軍が、事実上、先鋒のきりの役目をしたものである。
家康は、井伊家を最強兵団にすることにつとめ、甲斐かいの高田家の牢人ろうにんを多く召し抱えて井伊家につけた。武田家の赤備えが、しのまま井伊の赤備えになったわけである。
しかし、刀槍とうそうの時代はすぎた。
彦根藩はいまや、諸藩でも最弱といっていい部隊になっている。
「旧幕府ではなんといっても、いま大鳥が率いている町人百姓あがりの歩兵と、伝習隊、衝鋒隊しょうほうたいがもっとも強いだろう」
「強弱だけではないさ、時代のかわりは。──」
香川はちょっと首をすくめ、
「徳川譜代いわれた彦根が徳川をすて、官軍になって旧幕臣と戦おうとしている」
といった。香川はどういうわけか、彦根人に好意をもっていなかった。
薩人の有馬は、香川のそういう口さがない性格が嫌いだった。
そういう理屈でゆけば、香川は徳川御三家の一つ水戸家の家中だった男ではないか。
2024/05/25
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