~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
沖 田 総 司 (一)
いま千駄ヶ谷で植木屋といえば、ほんの二、三軒、父祖何代かの店が残っているぐらいだというが、当時はこの界隈かいわいは植木屋が多い。
小旗本にならんで、五百坪、七百坪といった樹園がある。
沖田総司が養生している平五郎の樹園は内藤駿河守するがのかみ屋敷(現在新宿御苑)の南にあり、家の北側に水車が動いている。
沖田は、納屋なやに起居していた。
(おれは死ぬのか)
とは沖田は考えたこともなかった。よほど生命が明るく出来ている生まれつきなのかも知れない。
もう医者にはかかっていない。
ときどき旧幕府典医頭てんいのかみ松本良順が若党や門人を寄越して薬を届けてくれるが、それもだんだん遠のいていた。
おもに、歳三が置いて行った土方家の家伝薬「虚労散」というあやしげな結核治療薬ばかりんでいる。
「効く」
歳三が云い切った薬である。歳三の口からそう断定されるとなにやら効きそうな気がして、良順の西洋医術による処方の薬をこっそり捨てることがあっても、これだけは服んでいた。
姉のお光が、三日にあげず来てくれては、介抱してくれた。
お光は、来るたびに獣肉屋ももんじやから買って来た猪肉いのししにくなどを庭先で煮てくれた。
「お汁も飲むのですよ」
と、つきっきりで総司が食べるのを見守っている。目をはなすと、捨てかねないのだ。
「くさいなあ」
と、沖田はみ込むようにして咽喉のどに入れた。
獣肉は苦手だった。
「総司さん、きっとなおらなきゃいけませんよ。沖田の家は林太郎 う ち が継いだといっても、血筋はあなたひとりなんですから」
「驚いたな」
総司は底抜けの明るさで小首をかしげてしまう。
「なにがです」
お光もつい吊り込まれて微笑 わらってしまうのだ。
「なにがって、姉さんのその口ぶりがですよ。私の病気はそんな大そうなものじゃないと思うんだがな」
「そうですとも」
「あれだ」
総司は噴き出して、
「姉さんは取り越し苦労ばかりしているくせに、ちょっとも理屈にあわない。大した病気ではないとわかっていたら、そんなにご心配なさることはありませんよ」
「そうでしょうか」
「癒ります、きっと」
人ごとのようにいう。本気でそう思っているのかどうか、この若者の心の底だけはわかりにくい。
もう食欲はまったくないといってよかったし、無理をして食べても消化が十分でない。
「腸にきている」
と、松本良順は、林太郎とお光には言った。
腸に来れば万に一つ癒る見込みはない。
大坂から江戸へ戻る富士山丸の中で、素人しろうとの近藤でさえ、
(総司は永くはあるまい)
と歳三に言った。そのくせ富士山丸の中で冗談ばかり言って笑い、「笑うとあとでせきが出るので困る」と自分でもてあましていた
江戸に帰ってから近藤は、妻のおつね・・・(江戸開城後は、江戸府外野村本郷成願寺に疎開そかい)に、
── あんなに生死というものに悟りきったやつも珍しい。
と言ったが、修行で得た訳ではなく天性なのであろう。総司はこの時二十五歳である。
2024/05/28
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