~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
沖 田 総 司 (三)
。お光には時間の余裕がないらしい。このまますぐ走って藩邸のお長屋に戻り、夫とともに出発しなければならない様子だった。
「総司さん、ここに下着や下帯の新しいのを重ねておきます。もうお 洗濯 せんたく はしてあげられないけれど、 肌身 はだみく のものだけはいつもきれいにしておくのですよ」
「ええ」
総司は、少年のようにうなずいた。
良人 うち
は、庄内に行く時戦になるかも知れない、と言っています」
「庄内藩の士風というのは 剛毅 ごうき
なものだそうですね。 国許 くにもと の藩士は雨天でも かさ を用いぬ、というのが自慢だというのは本当ですか。子供のころそんな話を聞いたことがあるけど、それが本当ならずいぶん強情者ぞろいらしい」
お光は、話に乗って来ない。
「鶴岡のお城下では羽黒山から朝日が出るそうですよ。それがとても綺麗だと聞いています。しかい江戸からずいぶん遠いなあ。朝日というものはあんな北の国でも東から昇るのだと思うと、おかしくなる」
「まあ、この人は」
お光は、やっと気持がほぐれたらしい。
「もう雪は解けているでしょうね。山なんぞにはまだ残っているかも知れない。いずれにしても姉さんの足では大変だな」
「総司さんご自分の心配だけをしていればいいのです」
「良くなれば庄内へ行きますよ。西から薩長の兵が来れば、私ひとりで六十里越えの 尾国峠 おぐにとうげ
で防いでやります。そのときは、近藤さんと土方さんも連れて行きますよ」
「ホホ・・・」
この弟と話していると、なんだかこちらまでおかしくなってしまう。
「近藤さんや土方さんはいまごろ何をしているかな。江戸のまわりは官軍で充満していると聞いているけど、流山は大丈夫でしょうね」
「あの人たちはお丈ですものいね」
と、お光は妙なことを言った。
総司は笑った。
「そうなんだ。江戸にいたころの近藤さんは、到来物の たい
を食べて、骨まで あぶ って、こんなもの み砕くんだといって、みんな噛んで食べてしまいましたよ。あの時は驚いたな」
「大きなお口ですからね」
お光も噴き出した。
「そうそう。あんな大きな口の人は日本中にいないでしょう。京都で酒宴をしたときなど、土方さんはあれで案外、 端唄 はうた
の一つもうたうんですよ。ところが近藤さんの芸ときたら、 拳固 げんこ を口の中に入れたり出したりするだけで、それが芸なんです」
「まあ」
お光は、明るくなった。
「総司さんの芸は?」
「私は芸なし。──」
「お父さんゆずりですものね」
「遠いな」
と、総司は不意に言った。
「なにが?」
「お父さんの顔が、私は五つぐらいのときだったから、うっすらとしか覚えていない。ああいうものはどうなんでしょう」
「え?」
「死ねば向うで会えるものかな」
「ばかね」
お光はこの時、やっと総司が布団の外に右手を出している意味がわかった。
「総司さん、風邪をひきますよ」
といいながら、そっと握り、布団の中にいててやった。
「早く元気になるのよ。よくなってお嫁さんを もら
わなければ」
総司は返事をしなかった。
枕の上で、ただ 微笑 わら
っていた。京で、芸州藩邸のとなりの町医mの娘に、淡い恋を覚えたことがある。ついに実らずにおわた。
(妙なものだな)
総司は、 はり
を見た。考えている。くだらぬことだ。
── 死ねば。
と総司は考えている。
(たれが 香華 こうげ
をあげてくれるのだろう)
妙に気になる。くだらぬことだ、と思いつつ、そういう人を残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えて来た。
2024/05/28
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