。お光には時間の余裕がないらしい。このまますぐ走って藩邸のお長屋に戻り、夫とともに出発しなければならない様子だった。
「総司さん、ここに下着や下帯の新しいのを重ねておきます。もうお
洗濯
はしてあげられないけれど、
肌身
はだみく
のものだけはいつもきれいにしておくのですよ」
「ええ」
総司は、少年のようにうなずいた。
「
良人
うち
は、庄内に行く時戦になるかも知れない、と言っています」
「庄内藩の士風というのは
剛毅
ごうき
なものだそうですね。
国許
くにもと
の藩士は雨天でも
傘
かさ
を用いぬ、というのが自慢だというのは本当ですか。子供のころそんな話を聞いたことがあるけど、それが本当ならずいぶん強情者ぞろいらしい」
お光は、話に乗って来ない。
「鶴岡のお城下では羽黒山から朝日が出るそうですよ。それがとても綺麗だと聞いています。しかい江戸からずいぶん遠いなあ。朝日というものはあんな北の国でも東から昇るのだと思うと、おかしくなる」
「まあ、この人は」
お光は、やっと気持がほぐれたらしい。
「もう雪は解けているでしょうね。山なんぞにはまだ残っているかも知れない。いずれにしても姉さんの足では大変だな」
「総司さんご自分の心配だけをしていればいいのです」
「良くなれば庄内へ行きますよ。西から薩長の兵が来れば、私ひとりで六十里越えの
尾国峠
おぐにとうげ
で防いでやります。そのときは、近藤さんと土方さんも連れて行きますよ」
「ホホ・・・」
この弟と話していると、なんだかこちらまでおかしくなってしまう。
「近藤さんや土方さんはいまごろ何をしているかな。江戸のまわりは官軍で充満していると聞いているけど、流山は大丈夫でしょうね」
「あの人たちはお丈ですものいね」
と、お光は妙なことを言った。
総司は笑った。
「そうなんだ。江戸にいたころの近藤さんは、到来物の
鯛
たい
を食べて、骨まで
炙
あぶ
って、こんなもの
噛
か
み砕くんだといって、みんな噛んで食べてしまいましたよ。あの時は驚いたな」
「大きなお口ですからね」
お光も噴き出した。
「そうそう。あんな大きな口の人は日本中にいないでしょう。京都で酒宴をしたときなど、土方さんはあれで案外、
端唄
はうた
の一つもうたうんですよ。ところが近藤さんの芸ときたら、
拳固
げんこ
を口の中に入れたり出したりするだけで、それが芸なんです」
「まあ」
お光は、明るくなった。
「総司さんの芸は?」
「私は芸なし。──」
「お父さんゆずりですものね」
「遠いな」
と、総司は不意に言った。
「なにが?」
「お父さんの顔が、私は五つぐらいのときだったから、うっすらとしか覚えていない。ああいうものはどうなんでしょう」
「え?」
「死ねば向うで会えるものかな」
「ばかね」
お光はこの時、やっと総司が布団の外に右手を出している意味がわかった。
「総司さん、風邪をひきますよ」
といいながら、そっと握り、布団の中にいててやった。
「早く元気になるのよ。よくなってお嫁さんを
貰
もら
わなければ」
総司は返事をしなかった。
枕の上で、ただ
微笑
わら
っていた。京で、芸州藩邸のとなりの町医mの娘に、淡い恋を覚えたことがある。ついに実らずにおわた。
(妙なものだな)
総司は、
梁
はり
を見た。考えている。くだらぬことだ。
── 死ねば。
と総司は考えている。
(たれが
香華
こうげ
をあげてくれるのだろう)
妙に気になる。くだらぬことだ、と思いつつ、そういう人を残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えて来た。
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