~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
沖 田 総 司 (四)
沖田総司は、それから一月あまりたった慶応四年五月三十日、看取みとられる人もなくこの納屋の中で、死んだ。
死は、突如来たらしい。縁側にい出ていた。
そのまま、突っ伏せていた。菊一文字の佩刀を抱いていた。
沖田林太郎家に伝わっている伝説では、いつも庭に来る黒いねこを斬ろうとしたのだという。
斬れずに、死んだ。
墓は、沖田家の菩提寺ぼだいじである麻布桜田町浄土宗専称寺にある。戒名は、賢光院仁誉明道居士。永代祠堂料えいだいしどうりょう金五両。── のちに江戸に戻って来たお光と林太郎が納めたものである。
のち墓石が朽ちたため、昭和十三年、お光の孫沖田要氏の手でかえられ、同じく永代祠堂料金二百円。当時としては大金といっていい。
お光の沖田家の現在の当主は、東京都立川市羽衣はごろも町三ノ一六沖田勝芳氏である。そこに総司の短い生涯しょうがいを文章にしたものがのこされている。たれが書いたものか。
沖田総司房良かねよし、幼にして天然理心流近藤周助の門に入り剣を学ぶ。異色あり。十有二歳、奥州白川阿倍藩指南番と剣を闘はせ、勝を制す。斯名このな、藩中に籍々せきせきたり。
 総司、幼名宗次郎h春政、後に房良とあらたむ。文久三年新選組の成るや、年わづかに二十歳にして新選組副長助勤筆頭。一番隊組長となる。大いに活躍するところあり。
しかりといへども天籍、寿をもつてせず。惜しいかな、慶応四年戊辰五月三十日、病歿びょうぼつす。
(原文は漢文)
 
総司の死の前月二十五日に、近藤は板橋で斬首ざんしゅされた。
当時なお、総司は病床にある。しかしこの報は、千駄ヶ谷の東のはずれで一人病を養っている総司の耳に伝わらず、息を引取るまで近藤は健在だと信じていた。
 
歳三が、風のたよりに近藤の死を知った時には、すでに宇都宮城を捨て、日光東照宮にって、江戸の官軍を脅かしていた時であった。
その後、各地に転戦し、次第に兵は膨れ上がり、その後、会津若松城下に入った時には、歳三の下にすでに千余人という人数になっていた。
歳三はこれを、
「新選隊」
と名づけた。
当時すでに兵の集団をではなくと名づける習慣が一般化していたのだ。
副長は、新選組結成以来の奇蹟きせき的な生き残りである元副長助勤三番隊組長斎藤一であった。
剣の精妙さは京都の頃からの鬼斎藤と言われ、京都時代はおそらく三十人は斬ったであろう。
が、かすり傷負わなかった。後に東京高等師範学校をはじめ、諸学校に剣術を教えに行ったことがあるが、三段、四段の連中がむらがって掛かって来ても、籠手こて一かすらせなかった。
老いて、南多摩郡由木ゆぎ村中野の小学校教員になった。
京都時代は強いばかりでさほど味のある人物でもなかったが、各地に転戦を重ねてゆくうちに、どういうわけか、だんだん性格が剽軽ひょうきんになってきて、ある日、
「隊長、私は雅号をつけた。今日からはその号で呼んでいただけないか」
と言った。なんだ、と聞くと、
諾斎だくさいです」
笑っている。若いくせに隠居のような名である。
歳三も噴き出して理由を聞くと、
「あんでもあんたの言うことをきく。だから諾斎」
と言った。
この号は、死ぬまで用いている。
この斎藤の他、副長格に、歳三の遠い親戚しんせきにあたる武州南多摩郡出身の旧隊士松本捨助を選んだ。佐藤彦五郎に付いて天然理心流を学んだ目録持ちで、才気はないが、弾丸雨注の中でも顔色一つ変えず真先まっさきに斬り込んで行く。官軍の群れの中に飛び込むと、
「新選組松本捨助」
とかならず名乗った。
そんなことで、この男の名は官軍の間にまで知られていた。
2024/05/29
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