この時期から、土方歳三という名が、戊辰戦役史上、大きな存在として浮かび上がって来る。
彼は庄内藩へ走って藩主を説得し、また会津若松の籠城戦に戦い、さらに奥州最大の雄藩仙台藩の帰趨きすうが戦局のわかれ目とみてその態度決定をうながすため、仙台城下国分町こくぶんちょうの「外人屋」に入り、麾下きか二千の兵を城下の宿所々々に駐留させ、青葉城内での藩論決定を武力を背景に迫った。
東北の秋は早い。
仙台城下の寺町や武家屋敷町の落葉樹が、もう黄ばじめはじめている。
この間、近藤の板橋での刑死については、会津若松での戦闘中に官軍捕虜から詳報を聞き、若松の愛宕山あたごやまの中腹を選んで、墓碑を立て、
貫天院殿純義誠忠大居士
という戒名をきざんだ。
仙台城下に入ってからも、二十五日の命日には終日、魚肉を避け冥福めいふくを祈った。
そうしているうちにも、江戸脱走、関東転戦の反薩長有志が、ぞくぞくと仙台城下に集まり、歳三の指揮を仰いだ。
歳三はしばしば青葉城に登城し、藩主陸奥守むつのかみ慶邦よしくにおよびその家臣に説いた。
「奥州は日本の六分の一でござる」
と言うのである。
「しかも奥州各藩の兵を合すれば五万であり、兵馬強悍きょうかん、西国にまさっている。この地に拠って天下を二分し、しかるのちに薩長の非を鳴らし、聞かざればその暴を討つ。伊達だて家の御武勇は藩祖の貞山公(政宗)以来、天下にひびいたものでござれば、ぜひ奥州同盟の盟主として正義を天下に示されたい」
歳三は、いわば旧幕府の代表者として談じ込んでいる。その背景にはおびただしい脱走陸兵がいるから、この男の一言一句は、仙台藩をゆるがすに十分だった。
このころ、先代藩主伊達慶邦は、自らの佩刀の下げ緒を解き、歳三に与えている。水色組糸くみいとの下げ緒で、現在、日野市佐藤家所蔵。 |