一方、旧幕府海軍副総裁榎本和泉守武揚たけあきが、八月十九日夜、旧幕府艦隊を率いて、品川沖を脱走し、北上し始めた。
開陽丸を旗艦とし、回天丸、蟠竜ばんりゅう丸、千代田形丸の四艦に神速丸、長鯨丸、美嘉保もいかほ丸、咸臨かんりん丸の輸送船をともなう日本最大の艦隊で、官軍は海軍力に於いてはとうていこれえに及ばない。
この榎本艦隊には江戸脱走の旧幕兵をも載せ、さらに旧幕府陸軍のフランス人教官である砲兵士官ブリューネ、砲兵下士官フォルタン、歩兵下士官ブュフィエー、同カズヌーフなども同乗させていた。
途中、風浪のために四散し、美嘉保、咸臨の二艦を喪うしなったが、艦隊としての実力にはさほどひびかない。
これらが仙台藩領寒風沢さぶさわ港、東名浜にぞくぞくと結集して来たのは、八月二十四日から九月十八日にかけてである。
旗艦開陽丸は八月二十六日に入港し、同日榎本は幕僚、陸戦隊を率いて威武をととのえて上陸した。
榎本は、土方歳三、大鳥圭介らが国分町に旧幕軍本部を置いていると聞き、ひとまずそこで海陸両軍の協議をとげることにした
途中、榎本は、
「荒井君」
と、開陽丸指揮官荒井郁之助いくのすけに聞いた。
「大鳥はよく知っているが、土方歳三というのはどういう男だ」
「江戸で会ったことがあります。沈着剛毅といった男で、大軍の指揮が出来る点では、あるいは大鳥以上でしょうな」
荒井郁之助は榎本とおなじく旧旗本の出身で、幕府の長崎海軍伝習所に学び、江戸築地小田原町の海軍操練所頭取、幕船順同丸船長などを経た根っからの海軍育ちだが、のち歩兵頭をつとめたこともある。
その気象学の知識をかわれて、維新後、初代中央気象台長になったという風変りな後半生をもつにいたった。要するに、オランダ留学までした榎本を筆頭に、荒井、大鳥などは、旧幕府きっての洋学派といえるだろう。
が、いまから対面する旧新選組副長土方歳三という人物の見当がつかない。というより、どこか、違和感があった。
国分町宿館に着いてみると、歳三は、城南大年寺に兵を集めて屯する仙台藩主戦論者富小五郎を訪ねて不在だった。
宿館で、歳三の評判を聞くと非常な人気で、大鳥のことはたれもあまりよくいわない。
学者かも知れないが臆病者おくびょうものだ、と云い切る者もある。
やがて、歳三が戻って来た。
「わたしは榎本釜次郎かまじろうです」
と武揚は言った。
「申し遅れました。土方歳三です」
にこにこ笑った。この不愛想な男が、初対面の榎本に相好そうごうをくずしたのは、よほどのことである。
仙台城下では旧幕軍艦隊の入港というので沸き立っていたのである。寛永六年ペリー大佐の率いる米国東洋艦隊が来て日本中に衝動を与えたが、それと同じ実力の艦隊が、いま領内に入っているのだ。
やとえば旗艦開陽丸は排水量三千トン、四百馬力、オランダ製新造艦であり、これにつぐ回天丸は千六百八十七トンで、この二艦の備砲射撃をするだけでも仙台藩の沿岸砲は一時間で沈黙するだろう。
それに江戸から千数百人の陸兵を輸送して来ている。
「榎本さん、仙台藩の藩論はなお和戦両論にわかれて動揺していますが、これで百万言の説得よりも効があるでしょう」
「土方さん、あなたは旧幕府きっての歴戦の人です。頼みます」
と、榎本は、西洋人のように歳三の手を握った。
その夜、軍議が開かれ、それぞれの役割が決まった。
歳三は、この日から陸軍部隊を統括とうかつする陸軍奉行に就任し、陣地の部署割りも決まった。
本陣を、日和山ひよりやまに据すえた。
現在いまの石巻市(仙台湾北岸)の西南にある低い砂丘で、南北朝時代、奥州第一の豪族であった葛西かさい氏の城跡である。
丘は低いが海陸の眺望ちょうぼうがよくきき、東は北上川をへだてて牧山に対している。
歳三はこの日和山の麓の鹿島明神を宿舎とし、松島、塩釜までのあいだ海岸十里にわたって布陣した。
これには、榎本も驚いた。
「土方さん、兵を仙台の城下に集中させておく方がいいでしょう。なぜ、長大な海岸線に分駐させてしまうのです」
「いや」
と、歳三に好意を持つ旧歩兵頭、現陸軍奉行の松平太郎が、
「仏式演習をして、青葉城(仙台城)の難論派の気勢をくじくのです。演習後、すぐ城下に結集させます」
と言った。
この演習には、仙台藩星恂太郎じゅんたろうの指揮する洋式歩兵隊も加わり、総数三千余が、紅白にわかれ、完全仏式による大規模な戦闘を行なった。
むろん、演習計画の立案、作戦、戦闘行動については仏人顧問団が指揮している。
歳三は、松平、大鳥とともにこの演習の総監督であったが、この男の独特のカンのよさは、フランス式用兵をこの大演習で完全に呑み込んだことである。
砲兵教官ブリュネーが驚き、
「土方さん。フランス皇帝があなたを師団長に欲しがるでしょう」
と真顔で言ったほどであった。 |