思えば、あのころが、花であったかも知れぬ。
その歳三が、脱走幕軍の陸軍奉行並として仏式軍服を着て、遠藤に対座している。
(のあの土方か)
遠藤の眼に、軽蔑けいべつと憎しみがある。
榎本武揚は、説いた。
この男は、日本人に、珍しくヨーロッパを見て来た男である。
説くところ、世界の情勢から説き、薩長が幼帝を擁して権をほしいままにし、日本国を誤ろうとしている、という論旨で押してきた。
歳三はちがう。
どうも口下手で、榎本の言説のような世界観がない。仙台戊辰関係の資料では、歳三はこう言ったことになっている。
「仙台藩にとって、官軍に帰順するが利か、戦うが利か、そういう利害論は別だ」
と言うのである。
「弟をもって兄を討ち(弟とは紀州、尾州、越前といった御三家家門をさすのだろう。兄とは徳川家らしい)、臣(薩長)をもって君(徳川家)を征す。人倫地に堕おち、綱常まったく廃す」
という革命期には通用せぬ旧秩序の道徳をもって薩長の非を鳴らし、
「このような彼等に天下の大政を秉らしめてよいはずがない。いやしくも武士の道を解し聖人の教えを知る者は、断じて彼ら薩長の徒に味方すべきでない。貴藩の見るところ、果たして如何いかん」
残念ながら歳三は所詮しょせんは喧嘩屋で、大藩の閣老に説くにはどうしても言説がお粗末で、ひらたく言えば、清水次郎長、国定忠治が言いそうなことと、あまり大差がない。
やはりこの男は戦場に置くべきで、こういう晴れ舞台には向かないようである。
ただ、歳三の随身格として登城し、別室に控えていた京都以来の隊士斎藤一と松本捨助は感心してしまい、のちに日野の佐藤家を訪ねてこの時の模様を、
── いやもう大したものでした。挙借重厚、じゅんじゅんと陳述するところ、大大名の家老格といったところで、自然に備わる威儀風采ふうさいには実に感じ入ったものでした。
と語っている。斎藤や、松本といった古い仲間の眼からみれば、武州南多摩郡石田村の百姓の喧嘩息子が、剣一本だけの素養で、とにかく仙台六十二万五千石の帰趨きすう決定を、青葉城内の大広間で論じただけでも大したものだと思ったのであろう。
が、歳三の出る幕ではなかった。
その直後、仙台藩執政遠藤文七郎が、同役の大条おおえだ孫三郎に、
「榎本はさすがな男だ」
と、その学才、政治感覚に感心したが、歳三については、ひどい評を下している。
「土方に至りては、斗筲としょう(小さなマス。一斗程度しか入らない)の小人、論ずるに足らず」
遠藤は藩内勤王派の首領であり、歳三には恨みもある。だからこうも酷評したのだろうが、まずまず、こういうところであろう。
このあと宿舎に帰ってから歳三が、松平太郎に、
「ひどい役目だった」
と、汗をぬぐいながら閉口し、
「私はやはり大広間に向かぬ。弾たまの雨、剣の林といったようなところがいい」
と言った。
それをそばで聞いていた大鳥圭介が、
「相手が悪い。遠藤という男は私も知っている。江戸に遊学していたころ昌平黌しょうへいこうでも秀才で通った男だった」
と、歳三を冷笑するように言った。
昌平黌とはいうまでもなく幕府の官設による最高の学問所で、こんにちの東京大学の前身である。
大鳥にすれば暗に無学な百姓あがりの剣客の歳三をからかったつもりだろう。
やがて仙台藩は、官軍に帰順した。
榎本艦隊は、仙台藩領を去って、風浪の中を北海道であたらしい天地を開くべく航海を開始した。
歳三、旗艦開陽丸にある。
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