~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
艦 隊 北 上 (二)
一例は、若松城外での戦闘の時である。
榎本が聞いている話では、歳三は小部隊を率いてみずから偵察ていさつに出かけた。
部落のはずれに、雑木林がある。道はその林の中を通っている。
すでに薄暮になっていた。雑木林まで来た時にわかに林冲からミニエー銃の一斉いっせい射撃をくらった。
一同、官軍の大部隊に遭遇したとみて、散って伏そうとする者、応射しようとする者、大いに狼狽ろいうばいしたが、歳三はすぐしずめ、
「みな、その場その場で大声をあげろ、声をそろえろ」
と命じた。
わあっ、と一せいに叫びあげると、雑木林の敵もこれにつられて、
わあっ、
と応じかえした。
歳三は、あざ笑った。
「少数だ、前哨兵ぜんしょうへいである」
声で、数まで当てた。五十人とみた。
「かまわずに進め」
と、どんどん押して行くと、敵は前哨兵だから、戦わずに逃げた。
歳三が偵察から戻って来ると、平素、歳三に臆病者とののしられている大鳥圭介が、
「なぜたなかった」
と、やや難ずるように言った。
「理由はあなたが持っている仏式の歩兵操典にかいてある。斥候せっこうの目的は偵察にあり、戦闘にはない」
大鳥も負けていない。
「敵も前哨兵だ。戦って捕虜にすれば本隊の状況がわかるではないか」
「そのとおりだ。しかし、捕虜の口を借りるより、拙者自身が敵の本隊を見て来た方がもっと確かだろう」
事実、大胆にも敵の本隊の眼鼻が見えるところまで接近し、その動きを偵察して帰っている。
将校斥候としては、理想的な行動と言っていい。
しかも歳三は偵察から帰隊するや、剣士三十人、銃兵二百人を連れて無燈のまま急進し、その本隊の宿営地を襲って、はるか後方まで潰走かいそうさせている。
(大鳥には出来ない芸当だ)
この話を聞いた時、その指揮ぶりがもはやになっていると思った。戦さ芸・・・巧緻こうちさ、決断の早さ、大胆さ、行動の迅速さは三百年父祖代々の食禄しょくろく生活にあぐらをかいて、猟官運動にだけ眼はしのきく譜代の旗本たちの遠く及ぶところではないと思った。
だいぶ、海霧ガスが出はじめている。
船尾から十町離れてついて来る甲賀源悟艦長の「回天」の舷燈が見えなくなっていた。
「開陽」は、霧笛を噴きあげた。
やがてはるか後方のやみで、「回天」の霧笛がそれに応じて来るのが聞こえた。
(すべてがうまく行っている)
榎本は、歳三の部屋のドアをノックした。
「・・・・・」
歳三は、様式にれない。剣をとってドアに近づき、身をよせ、
「たれか」
と、声を押し殺した。京の新選組当時に身につけた用心深さは、もはやこの男の癖になっている。
「私です。榎本です」
「ああ」
と、歳三はドアを開いた。
「お邪魔ではないですか」
榎本は微笑している。オランダの首都ヘーグの市庁舎で、「どうみてもお前は極東人ではない。スペイン人だろう」と言われたほどの彫の深い顔をこの男は持っている。面長おもながの多いいわゆる江戸顔ではない。
2024/06/04
Next