父円兵衛は、備後国深安郡湯田村箱田の庄屋しょうやの子であった。土地を支配している郡奉行こおりぶぎょうにその学才を愛され、江戸へ連れて行ってもらい、幕府の天文方高橋作左衛門、伊能忠敬ただたかの両人に師事して江戸でも有数の数学者になり、幸い幕臣榎本家の株が千両で売りに出ていたのでそれを買い、榎本円兵衛武規と名乗り、五人扶持ぶち五十五俵を支給せられることになった。
その子である。
血に田舎者の野性が混じっている。しかし武揚自身は三昧線堀の組屋敷で生まれた生粋きっすいの江戸っ子で、学問きちがいかと思いうと狂歌としゃれがうまい。ほどよく田舎者の血と都会育ちのうまみが混じって、一種の傑作というべき人間をつくりあげた。
榎本は、歳三が文久三年三月十五日、近藤勇、芹沢鴨せりざわかもらとともに新選組を京で発足させた一ト月目の四月十八日に、幕府留学生十五人の一人としてオランダのロッテルダム港に入港している。
当時ロッテルダムの市民は、伝説と噂うわさのみにくき極東の「サムライ」を見物するために、川岸に数万の人出があり、騎馬巡査が交通整理に出馬し、怪我人けがにんまで出る騒ぎであった。
歳三が京で浮浪浪士を斬きっている三年の間に、榎本は化学、物理、船舶運用術、砲術、国際法をまなび、さらに当時めずらしかった電信機まで学んでモールス信号の送受信に相当な腕をもつにいたった。
しかも、。おりから丁墺ていおう戦争(1864年のデンマーク・オーストリア戦争)が始まったので、観戦武官として戦線に出かけた。
もっともこの戦争は、弱小国デンマークが、当時の大国オーストリアとビスマルクに率いられた新興国プロシアの連盟のため、あっけなく敗れただけの戦争だったが、榎本が受けた衝撃はおおきかった。
「弾丸雨飛中を出入りして、いわゆる文明国戦を実地に見た。この利益は大きかった」
と榎本は後年言っている。
墺普おうふ連合軍がデンマークに侵入し、シュレスウィッヒを陥おとしたころ、榎本はその最激戦場を見た。
そのころの陰暦になおすと、歳三らが京都三条小橋西詰めの池田屋に斬り込んだ元治元年六月五日前後であったろう。
新選組が京の花昌町に臣屯営を造営して大いに威を張った慶応元年十月の当時、オランダでは榎本はウェッテレンの火薬廠しょうで、火薬成分の研究をし、さらに幕府が買い入れるべき火薬製造機械の注文交渉をしている。
刑を雨二年九月十二日夜半、歳三が原田左之助ら三十六人を指揮して三条橋畔で土州藩士らと大乱闘をやっていたころ、榎本は、ロッテンダム市から約十里離れたドルドレヒトという小村にある造船所に詰めていた。
いま乗っている「開陽」が、数日後に竣工しゅんこうするまでになっていたからである。「開陽」ほどの大艦の造船は、オランダでも珍しかったから、当時は新聞、雑誌がこの艦のことを書きたて、「果たしてこの艦を架台から無事、河底の浅いドルドレヒト河降ろし得るかどうか、技術上の最後の苦心はそこに払われた」と雑誌ネーデルランス・マサハイが書いている。
これが無事、進水し、さらに両岸の風景の美しいメルヴェ河に浮かび上がった時は、臨席した海軍大臣も、その付近の牛飼いも昂奮こうふんに包まれて歓声をあげた。
そのころ歳三は、鴨川銭取橋ぜにとりばしで、薩摩藩に通謀したうた疑いのある五番隊組長武田観柳斎を斎藤一をして一刀で討ち取らせている。
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