榎本は年少の頃から冒険心が強く、十八、九の頃、のちに目付、函館奉行になった幕臣堀織部正利熈利熈としひろがまだ御使番にすぎなかった頃、幕府から密命を受け、松前藩の内情をさぐるため、北海道えぞちえ行くことになった。
その堀に懇願してその従僕になり、二人とも富山の薬売りに化けて函館まで出かけた、という。
「講釈でいう、隠密おんみつですよ。あの時はわれながら、こういうことが実際あるのか、とおかしかった」
と、榎本は言った。
榎本が函館へ行こうと思った最も小さな理由は、かついて行ったことがあるからである。
最大の理由は、北海道を独立させ、函館に独立政府を作ることであった。
「外国とも条約を結びます。そうすれば京都政府とは別に、独立の公認された政府になるわけです」
その独立国の元首には、徳川家の血筋の者を一人迎えたい、とうのは歳三はすでに仙台で榎本から聞いている。
「政府を防衛するのは、軍事力です。それには、京都朝廷が手も足も出ないこの大艦隊があります。それに土方さんをはじめ、松平、大鳥らの陸兵」
ほかに、と榎本は言った。
かの地には、五稜郭ごりょうかくという旧幕府が築いた西洋式の城塞じょうさいがある」
徳川家の結縁者を元首とする立憲君主国をつくるのが、榎本の理想であり、その理想図は、オランダの政体であったろう。
そのほか、榎本が函館をおさえようとした理由の最大のものは、函館のみが、官軍の軍事力によって抑えられていない唯ただ一つの国際貿易港であった。
長崎、兵庫、横浜はすべて官軍に抑えられ、しおの港と外国商館を通じて、官軍はどんどん武器を買い入れている。
函館のみは、公卿くげの清水谷しみずだに公考きんなる以下の朝廷任命の吏僚と少数の兵、それに松前藩が行政的におさえてはいるものの、それらを追っ払うのにさほどの苦労は要らず、まずまず、残された唯一ゆいつの貿易港である。
外国人の商館もある。
ここで榎本軍は武器を輸入し、本土の侵略を許さぬほどの軍事力を持ち、産業を開発して大いに富国強兵を計り、ゆくゆくは、現在静岡に移されてその日暮らしにも困っている旧幕臣を移住させたい、と榎本は考えている。
「土方さん、いかがです」
と、榎本は血色のいい顔に微笑をのぼらせて、得意そうであった。
榎本は、楽天家である。
なるほど、彼が知りぬいている交際法によって外国との条約も結べるであろう、経済的にも立ちゆくだろうし、軍事的にもまずまず将来噫は本土と対等の力をもつにいたるかも知れない。
「三年」
榎本は指を三本つき出した。
「三年、京都朝廷がそっとしておいてくれれば我々は十分な準備が出来る」
「しかし」
と歳三は首をひねった。
「その三年という準備の日数を官軍が藉かさなければどうなるのです」
「いや日数をかせぐのに、外交というものがある。うまく朝廷を吊つっておきますよ。われわれは別に逆意があってどうこうというのではないのだ。もとの徳川領に、独立国をつくるだけのことだから、諸外国も応援してくれて、官軍に横暴はさせませんよ。私がそのように持ってゆく」
「なるほど」
榎本は近藤に似ている、と思った。途方もない楽天家という点で。
(そういう資質の男だけが、総帥そうすいがつとまるのかも知れない)
歳三は、所詮しょせんは副長格である自分に気づいている。
むろん、それでいい。
おいおい榎本を輔たすてやろう、と思った。
ただ、二代目・・・の楽天家が、初代・・とちがい、ひどく学問があるのに閉口した。それになかなかの利口者であった。
(官軍は三年も捨てておくまい。かならずそれ以前にやって来る。その戦にこの男は耐えられるか)
歳三は、条約などはどうでもいい、要は喧嘩けんかの一事である。榎本のなかに近藤ほどの戦闘力があるかどうかを見きわめたかった。
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