~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
小姓市村鉄之助 (三)
船室の歳三の身のかわりは、小姓市村鉄之助が面倒をみている。
細面の、眼がすがすがしい若者で、どこか眼の辺りが、沖田総司に似ていた。
「お前、沖田に似ている」
歳三が言ったことがある。
「沖田先生に?」
これが市村の自慢になった。
市村は、美濃みの大垣藩の出身であるということは前述した。
鳥羽伏見の戦いの直前、新選組が伏見奉行所に駐屯ちゅうとんした時、最後の募集を行なった。
その時市村は、兄の剛蔵と共に、大垣藩を脱して応募したのである。
採用する時、すでに近藤、沖田は傷と病のため大坂へ後送されていた。当時歳三が事実上の隊長で、採否を決めた。
市村鉄之助を見た時、そのとしの幼さにおどろいた。
「いくつだ」
と聞くと、
「十九です」
と嘘を言った。
いま十六だから当時は十五歳だったはずである。
歳三は、にやりと笑ったきり、何も言わなかった。
「剣は、何流をつかう」
「神道無念流を学びました。目録を頂くまでにはなっておりましたが、この騒乱で、しるし可は持っておりません」
「立ち合ってみなさい」
と、隊士の野村利三郎を選び、試合をさせた。
どちらもあまり上手くない。が、気魄きはくだけは、鉄之助がまさった。
「君は、沖田に似ている。齢はどうやら嘘を言っているようだが、総司に免じて採用しよう」
と、歳三が言った。いわば、沖田総司のおかげで、採用されたようなものである。
市村鉄之助は、この一言で沖田総司をひどく恩に着、伏見での戦闘後、大坂へ引き揚げた時、はじめて病床の沖田総司に会った。
沖田はあとで、歳三に言った。
「似てやしませんよ」
「そうかね」
歳三も苦笑していた。別にたいした理由があってあの時あんなことを言ったのではない。
どうせ、ねこの手も借りたかった時のあの伏見奉行所時代である。
(これァ幼すぎる)
と思ったが、ままよ、と採った。そのとき、歳三は自分に云いきかせる理由として、
── 沖田に似ているから、それに免じて採ろう。
と言ったまでであった。
その一言が、市村鉄之助の一生を左右したといっていい。
市村は、大坂から江戸へ戻る富士山艦のなかでも、つきっきりで沖田の介抱をし、かんじんの局長近藤勇とは、ついに生涯しょうがい口を利いてもらったことがなかった。
2024/06/09
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