~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
松 前 城 略 取 (一)
艦隊が、北海道噴火湾にすべり込んだのは、戊辰ぼしん十月二十日である。
わし、という漁村がある。艦隊は、その沖で、それぞれ、いかりを投げ込んだ。この瞬間から、戊辰史上、天下をゆるがす事件がはじめることになる。
歳三は、開陽の甲板に立った。眼の前に、自分の上陸すべき山野が、雪をかぶってひろがっている。
すでに、榎本、松平、大鳥らと共に上陸後の作戦の打ち合わせは終わっていた。
二隊にわかれて函館(箱館)を攻撃するのである。本隊の司令官は大鳥圭介、別働隊の司令官は、土方歳三。
「土方さん、おたがい武州の生まれだが、とほうもない所へ来た。しかしこのすべてが、われわれの政府の国土だと思えば、可愛かわいくなる」
と、榎本武揚が、歳三の横に寄って来て、言った。
歳三は、望遠鏡で覗いている。
(ほう、人家がある)
しかも百四、五十軒も。これには驚いた。
「榎本さん、人家がありますな」
「いや、わしも驚いている。鷲ノ木には人は住んでいると聞いたが、どうせ蝦夷人あいぬが穴居しているのだろうと思っていましたが、世のことはわからぬものだ」
上陸してみると、東海道の宿場と同じようにちゃんと本陣まであり、主人が紋服、仙台平で出迎えたのには、さらに驚いた。
もっと驚いたことには、この本陣屋敷は日本建築だったことで、部屋数も七つか八つほどあり、貴人を迎えるための上段まで備わっていたことだ。
榎本まで驚いた。
「日本と変わらん」
十八歳のころ松前へ来たことがあるという榎本ににしてこうだから、歳三や大鳥、松平などは、茫然としている。
「土方さん、私はもっと蛮地かと思いましたよ」
と、松平太郎が言った。
「なんの、考えてみれば、松前藩が、ここで数百年根を張って来たのだ。しかし驚いたなあ」
若い松平は、にこにこしている。
翌日、箱館へ進発した。
大鳥軍は、旧幕軍歩兵を主力として、遊撃隊、それに白兵戦のために新選組(新選隊)傘下さんかに入れた。歳三の配慮であった。
「新選組は新政府のもので、私の兵ではありませんから」
ところが歳三の土方軍は、完全洋式部隊で、いわば兵を交換したようなものであった。
鷲ノ木からまっすぐ南下すれば箱館まで十里。これを大鳥軍が行く。
土方は、海岸線を遠まわりし、途中、川汲かわくみから積雪の山を越えて湯ノ川へ出、東方から函館をくことになった。
函館には、公卿くげ清水谷卿しみずだに公考きんなるを首領とする官軍の裁判所(行政府)があり、それを長州藩士一人、薩摩藩士一人が補佐し、防衛軍として、松前、津軽、南部、秋田藩などの藩兵が、官軍として駐屯していた。
大鳥、土方両軍はこれを各所で破り、清水谷公考は青森へ逃亡した。
函館の占領が完了したのは、上陸後十日ばかりの十一月一日である。
榎本軍は、函館府の内外に幕軍の旗である日章旗をて、港内に入った軍艦からそれぞれ祝砲二十一発を撃って、この占領を日本人、外国人にらしめた。
その政庁は、元町の旧函館奉行所に置き、永井玄番頭尚志を「市長」とし、榎本軍の軍司令部は、函館の北郊亀田にある旧幕府築造の洋式要塞ようさい五稜郭ごりょうかく」を本部とした。
函館占領を機会に、榎本軍では、市中に公館をもつ諸外国の領事を招待して祝賀会を行なう筈であったが、北海道における唯一の藩である松前藩が、函館の西方二十五里の居城で藩兵を擁し、なお「降伏」しない。
「土方さんは城攻めの名人だ」
と、松平太郎は軍議の席上で言った。
歳三は、黙っている。宇都宮城攻略のことを言っているのであろう。
「ご苦労だが、行ってもらいましょうか」
と、大鳥圭介も言った。大鳥は歳三を好んでいないが、松前藩を陥さなければ、外国公館に対する信用の問題になる。
この時歳三は、鷲ノ木から函館までの二十里の戦闘を終わったばかりで、兵もほとんど休息していなかった。
「陥落は、早ければ早いほどいい」
と榎本も言った。榎本は、これは政治的な戦争だとみていた。この攻略戦の早さで、外国公館、商社の、函館政権に対する信用が深くなる筈であった。
「・・・・それなら」
と、新政権の中でこのたった一人の無学者は、仏頂面ぶっちょうづらでうなずいた。
満足している。
仲間たちのほとんどは洋学者であった。漢学の素養もそれぞれ深く、事にふれて漢詩を作ったり、蘭学、仏学の話をしていたが、歳三は、そうした雑談の仲間には入ることが出来なかった。
喧嘩けんかのうまさだけが、自分のたった一つの存在意義だと思っている。
「行きます」
と、歳三はうなずいた。
2024/06/11
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