話はかわる。
江戸城の西ノ丸に本営を置く官軍総督府では、密偵や、外国公使館からの報告で、北海道の状況をくわしく知っていた。
毎日のように参謀会議が開かれた。
「どうやら北海道えぞち全土は彼らの手に帰したらしい」
という報告は、歳三の松前城占領の十日後には外国汽船によってもたらされていた。
その数日後になって、北海道政府の樹立が伝わり、政府要人の名簿まで伝えられた。
なにしろ横浜の外人間では、この噂でもちきりであった。
「函館政府は、在函館の外国公館、商社、船長などを招いて、盛大な祝賀会をやったらしい」
という報道も、横浜の英字新聞に載った。
フランス人などは、旧幕時代の関係でこの政権に好意を持っており、条約まで結ぼうとおい動きがあるという噂が、江戸城内にも伝わった。
さらに榎本は、英、仏、米、伊、蘭、独の各国公使を通じて、京都政権との併立和合をはかろうとして、精力的な文書活動を続けている。
むろん新政府では、
「攻伐」
に決していた。
当然なことで。京都政権がせっかく出来あがった早々、内乱敗北派による別の政権が北辺に成立しているのを黙っていては、唯一ゆいつ無二の正式政府としての対外信用が皆無になる。
「早急に」
というのが、薩長要人の一致した意向であった。
ただ、総参謀長の長州藩士大村益次郎だけは、早急討伐論に反対であった。
「まだ寒い」
というのが、戦術家がいった唯一の理由である。その門人の回想談では、益次郎の意向をこう伝えている。
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