歳三は、五稜郭の本営にいる。
明治二年二月、官軍の艦船八隻が、品川沖で出帆準備をととのえつつあるという情報が、函館の外国商社筋から入った。
さっそく軍議が開かれた。
「軍艦は四隻です」
と榎本武揚は言った。
「運輸船は四隻。これに陸兵六千を載せて来るという話です。これだけの数字なら恐るるに足りないが、ただ、困ったことがある。軍艦の中に甲鉄艦ストーン・ウォールが含まれているということです」
一同の表情に、非常な驚きが走った。とくに海軍関係者はその軍艦の威力を知っているだけに驚きというだけでは済まされない。
恐怖といってよかった。
「土方さん」
榎本は、微笑を向けた。
「甲鉄艦のことはご存知でしょう」
馬鹿にしてやがる、と思った。いくら歳三でもこの艦のことは知っている。
甲鉄艦はこの時期、おそらく世界的水準の強力艦であったろう。
旧幕府が米国に注文し、出来た時は、幕府瓦解がかいの直後であり、米国側はこれを横浜港にうかべ、
── 国際法上の慣例により内乱がおさまるまで双方に渡せない。
と、どちらにも渡さなかった。
榎本も、品川沖出航の直前まで執拗しつように米国側と掛け合ったが、らち・・があかない。
「大げさに言えば、あの時あの甲鉄艦さえ手に入れていおれば、北海道えぞち防衛はあの一艦で間に合うほどのものです」
と、かつて榎本は北海道への航海中、歳三に語ったことがある。
この艦が、新政府側の大隈おおくま八太郎(のち重信しげのぶ)らの苦心の折衝で、ようやく手に入れることが出来、海軍力の弱い官軍に強大な威力を加えることになった。
まだ、艦名はない。
木製だが甲鉄でつつんで鋲びょうで打ちとめてあるから、そういう通称が生まれたのであろう。
艦の大きさは函館政権の「回天」とさほどかわらないが、馬力が「回天」の四百にくらべて、千二百である。
備砲は四門。
数は少ないが、三百斤ポンドのガラナード砲、および七十斤の艦砲をそなえ、一弾で敵艦を粉砕出来る日本最大の巨砲艦とされている。
余談だが、この艦は、アメリカの南北戦争の最中に北軍の注文で建造されたもので、一艦もって南軍艦隊を破り得ると言われたほどのものであった。が、出来あがった時には南軍政府が降伏し、戦争は終わっていた。
おりからの幕府の軍艦買い付け役人が渡米して、この新造艦を港内で見、ぜひ譲ってほしいということで、話がついた。
ところが横浜に入った時は、幕府がなくなっている。宿命的な軍艦といっていい。
この艦はのちに東艦あずまかんと命名され、二十数年後の日清にっしん戦争の時でもなお庶民の間で代表的軍艦として名を知られていた。
「日清談判破裂して、品川乗り出す東艦」
という日清戦争の時の唱歌は、この艦を歌ったものだが、厳密には同艦は明治二十一年には老朽して船籍から除籍されている。 |