「榎本さん、その甲鉄艦は、南部領(岩手県)の宮古湾に寄港するでしょう」
と歳三は言った。
「当然、するでしょうな」
「その時に襲ってこちらに奪い取ってしまえばよろしい」
「・・・・」
みな、あきれたような顔で歳三を見た。
(この無学者が)
というところであったろう。
歳三は、例のはれぽったい眼を薄眼にして眠ったように瞳を動かさない。
榎本だけは、いしきりとうなずいている。すでに宮古湾の洋上で、歳三から、この夢のような戦術を聞かされていたからである。
「しかし土方君、わが方にすでに開陽がないのだ。あの当時とこちらの条件が違っている」
と、榎本は言った。
開陽は昨秋十一月、江差の弁天島投錨地とうびょうちで台風に遭い、沈没してしまっていた。これによって函館の海軍力は半減した、といっていい。
「回天があるでしょう。蟠竜、高雄もある。陸軍の私がいうのは妙だが、とのかく海軍はわれわれを運んでくれるだけでよい。乗っ取るのは陸軍でやる。もっとも乗っ取ったあと艦を動かいて帰るのは海軍だが」
「・・・・」
みな沈黙した。といって好意的な沈黙ではなかった。旧幕府陸海軍の秀才たちは、こういう戦術を学んだことがない。
(まるで昔の倭寇わこうではないか)
という感想であった。
このあと軍議は雑談におわって解散した。
この函館海軍当局の恐怖が、函館居住の外国人によって新政府に報告され、その報告文が横浜の英字新聞「ヘラルド」に掲載された。
文中、「函館政府の将校たちは、甲鉄艦が近くやって来ることに非常に恐怖している。しのせいか、海峡にたびたび捜索船を出しているようである。昨夜も、蒸気船二隻を出し、函館港の内外を航行させていた」とある。
この記事が大きく扱われているところから見ても、横浜の外人にとって、函館政府の動きは関心事だったに違いない。 |