新政府は、艦隊の編成に困った。政府の艦船としては、甲鉄艦一隻、輸送船は飛竜丸一隻きりである。
他は、旧幕以来、諸藩が外国から購入した艦船を集めざるを得なかった。
そうした艦船が品川沖に集まって来て、艦隊、戦隊を組み終わったのは、明治二年三月のはじめである。
軍艦は四隻、汽船は四隻であった。
甲鉄艦を旗艦とし、これにつぐ軍艦としては、薩摩藩の「春日」(一二六九トン)がわずかに期待される程度である。
残る二隻は、長州藩の「第一丁卯ていぼう」(一二〇トン)、秋田藩の「陽春」(五三〇トン)であるが、大きさ、速力、威力じゃ函館側と比べれば問題にならない。
彼女らは、三月九日、いっせいに錨いかりを挙げて出航した。
この旨むねは、横浜に潜伏している函館政府の間諜(外国人か)から報告されて、日ならず函館政府は知った。その報告には「宮古湾寄港は十七日か十八日」と書かれていた。(麦叢録)
官軍艦隊の第二艦「春日」(薩摩藩)に、のちの東郷平八郎が、二十三歳の三等士官として乗り組んでいた。
乗組士官は、艦長が赤塚源六、副長格が黒田喜左衛門。ほかに谷本たにもと
良助、隈崎くまざき佐七郎、東郷平八郎。
この無口な若者は、砲術士官として舷側砲げんそくほうを受け持っている。
「東郷元帥げんすいの経歴の不思議さは、我が国におけるあらゆる海戦に参加した事である」
と、のちに小笠原長生翁ながなりおうが書いているように、これほど戦さ運にめぐまれた人物は外国の例にも無いと言われている。
── あれは天運のついた男だ。
というのが、日露戦争の直前、海軍大臣山本権兵衛が、当時閑職の舞鶴鎮守府長官として予備役編入を待つだけの運命であった東郷(当時中将)を連合艦隊司令長官に任命した理由だったという。
明治天皇が、なぜ東郷を選ぶのか、と山本海相のその選考理由を下問したときも、
「ここに幾人かの候補者がいます。技術は甲乙ございませぬ。ただ東郷のみは運の憑つきがよろしゅうございます」
と答えた。
「春日」の乗組士官である薩摩藩士東郷は、かつて榎本の率いる幕府艦隊と阿波沖で交戦している。
慶応四年正月、鳥羽伏見の戦いの真最中での出来事で、当時「春日」は兵庫港にあり、同藩の汽船二隻を護送して藩地へ帰る命を受けていた。
四日朝、大坂湾を離れて阿波沖にさしかかった時、榎本の坐乗ざじょうする日本最大の軍艦「開陽」に遭遇した。
むろん「開陽」にかなうはずがない、「春日」や快速を利用して離脱しようとしたが、榎本はぐんぐ艦を近付けて交戦を強しいた。
榎本は、十三門の右舷砲の火門をいっせいに開かせて、砲撃した。
が、一発も「春日」に当たらない。なにしろ、艦は大きく、海軍技術ははるか幕軍の方がすぐれているはずなのに撃ち出す砲弾はすべて「春日」の前後左右で水煙をあげるのみであった。
ついに「開陽」は、わずか千二百メートルの近距離までに迫った。
このとき東郷みずからが操作する左舷四十斤ポンド施条砲しじょうほうが、はじめて火蓋ひぶたを切った。
これが一発で、「開陽」に命中し、第二弾、第三弾もいずれも命中した。
この海戦は、この国における洋式軍艦による最初の海戦であった。
この記念すべき戦闘で、海軍に熟達しているはずの「開陽」乗組員が、百発ちかい砲弾を発射したにもかかわらず、一発も命中しなかった。運が悪い、というほかない。
── 東郷は運がいい。
という¥山本権兵衛の最初の印象は、この初一発の命中であったろう。「春日」は無事離脱して鹿児島へ帰っている。
|