回天、蟠竜、高雄の三艦は、その序列で一列になって南下しいぇいる。
歳三は、ずっと旗艦回天の艦橋にいた。
二十二日は、南部藩領久慈のとなり、土地では「鮫さめ」と呼んでいる無名港に入った。
三艦とも幕軍の船旗「日の丸」をおろし、マストに官軍の戦旗である「菊章旗」をかかげていた。漁民や航行船の通報をおそれたのである。
「土方さん、陸兵の斥候をおろしますか」
と、艦長の甲賀源吾が聞いた。斥候、というのは、宮古湾における官軍艦隊の動静をさぐるためであった。
「私が行きます」
歳三はどう言って、小姓の市村鉄之助ひとりを連れて短艇に乗った。
鮫村という漁村に着き、土地の漁夫から官軍の動静を聞いた。
みな知らなかった。
歳三は失望して、ふたたび艦上の人となった。
「甲賀さん、官軍の様子がわからない」
索敵がうまくゆかなければ、この奇襲作戦は失敗するであろう。
「なるほど、鮫村では宮古湾から遠すぎて様子がわからないのも当然かも知れない。
土方さん、錨をあげます。出帆します。こんなところにぐずぐずしていては、敵に気取られてしまう」
と甲賀艦長が言った。
そのとおりだ、と歳三はうなずきながら、甲賀艦長の手もとの陸図をのぞき込んだ。
宮古湾までに、偵察ていさつのために手頃な漁港はもうなさそうである。
ただ、宮古湾をやりすごせば、同湾から南五里のところに山田という漁港がある。
「ここがいい。やや接近しすぎるきらいはあるが、この山田村の人間なら五里むこうの宮古湾の様子を知っているだろう」
「妙案です。おっしゃるとおり発見される危険はともなうが、戦には賭かけが必要だ」
甲賀源吾は、すぐあとの二艦の艦長に連絡し、錨をまきあげ、やがて低速気力で出航しはじめた。
港外に出た時、蒸気をとめ、帆走にきりかえた。
幸い、風は追風である。
艦橋ブリッジは、静かである。
歳三も無口だし、甲賀源吾という武士も必要なこと以外はほとんど口を利かないたちの男であった。
(この男こそ函館きっての人材かも知れない)
と歳三は、甲賀をひどく好意的な眼で眺ながめていた。
齢としは歳三よりやや若い。三十一歳である。削いだような耳と、小さな眼をもっている。小作りな体に無駄むだなく、精気を凝りこりかためたような体格の男であった。
(体つきは、藤堂平助か、永倉新八に似ている。性格はおれに似ているかも知れない)
甲賀源吾は、むろん幕臣である。しかし、函館政府のほとんどの幹部がそうであるように、譜代の旗本ではなかった。
遠州掛川藩士甲賀孫太夫まごだゆうの第四子に生まれた。この家系の遠祖は忍びで著名な近江国おうみのくに甲賀郡から出ている。
江戸で幕臣矢田堀やたぼり景蔵(のち鴻こう・幕末の海軍総裁)について航海術を学び、のち荒井郁之助(函館政府の海軍奉行)について高等数学、艦隊操練の蘭書を翻訳し、さらに長崎で実地に航海術を修業し、この技術によって幕臣に取り立てられ、軍艦操練所教授方、軍艦頭などをつとめた。
甲賀源吾も歳三には好意を持っているようであった。
歳三の戦法は索敵を重んじた。しかし軍艦でいちいち沿岸に錨をおろしては漁村で索敵するのだから、つい行動が鈍重になり、面倒でもあり、海軍としては快適な戦闘準備ではなかった。
それでも甲賀は、唯々いいとその陸兵発想の索敵法に協力してくれた。
「土方さん、池田屋の時にも十分な索敵をしましたか」
甲賀は、元治元年六月のあの高名な事件について聞きたがった。
新選組の少数が斬り込んで奇功を奏した戦闘である。
「あれは近藤の手柄てがらでした。私は木屋町の四国屋重兵衛方を受け持ち、あとで池田屋に駈けつけたときはあらかた片づいていた。しかしその前に池田屋は十分に調べた。探索方の副長助勤で山崎烝」
と言った時、艦が大きく揺れはじめた。
歳三は、窓外を見た。波のうねりが高くなっている。外洋に出たせいかどうか。
「この山崎が」
歳三は窓外見たままである。
「探索の名人でした。薬屋に化けて池田屋に泊まり込み、敵方に接近して信用を得、酒宴の膳ぜんはこびなどもした。集まった人数のわりに座敷が狭かったから、薬屋の山崎が、みなさんお腰のものをお預かりしておきます、といって大刀をまとめ、隣室の押入れへ入れておいた。わずか五人で斬り込んだ近藤の第一撃が奏功したのは、このためです。勝つためには策が要る。策を立てるためには偵察ものみが十分でなければならない。喧嘩けんかの常法ですよ」
艦の揺れがひどくなった。
風が強くなった。雨こそ降らないが、雲が重く沖合に垂れはじめ、素人眼にも容易ならぬ天候になりつつあることがわかった
(陸なら夜討に恰好かっこうな天候だが)
歳三は艦橋をおりて舷側へ行き、先刻食べたものを一気に吐き捨てた。
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