~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
宮 古 湾 海 戦 (二)
夜に入って晴雨計がどんどんさがりはじめ、風浪がはげしくなった。
それまでに「回天」は帆を一枚ずつぐようにおろしていたが、ついに汽力航走にきりかえた。
黒煙をげて走っている。
夜半、当直士官が騒いだ。後続する蟠竜、高雄の舷燈が見えなくなったのである。
彼らは、艦橋で仮眠している甲賀艦長を起こした。
甲賀は騒がなかった。
「彼らは、波にまかせている」
回天とは、汽力が違う。
両艦とも汽力が乏しいために、この風浪のなかで自力航走をすることはかえって危険であった。
蟠竜と高雄は、おそらく汽罐きかんをとめ、錨をおろし、ひたすら艦の損傷を避けるために浮んでいるだけの航法をとっているのであろう。
しかし浮んでいるだけでも、この風浪なら、操舵そうだをあやまりさえしなければそのまま自然と南下出来る筈である。
その夜、回天は横波mのために舷側の外輪のおおいを打ち壊された。
夜明けとともに風はやんだ。
「いない」
歳三は窓外を見て、くすっと笑った。笑うしか仕方がなかった。後続していたはずの蟠竜と高雄が、この見渡す限りの大海原おおうなばらのどこにも居なかったのである。
(なんと軍艦とは不自由なものだ)
やがて艦は陸地に向って走りはじめた。
朝焼けの空の下に、山田湾の風景がひらけてきた。
驚くべきことがあった。湾の入口に濛々もうもうと黒煙をあげている軍艦があり、近づいてみると高雄であった。
流されたほうが早かったのである。蟠竜の行方はわからない。
回天、高雄は、山田湾に入った。
今日はマストに回天が米国旗、高雄はロシア旗をひるがえしている。
「土方さん。──」
艦橋の甲賀源吾はさも重大な発見をしたように歳三方をふりかえり、陸上の丘を指さした。
「菜の花畑です」
眼が痛むほどあざやかな黄色に丘や野が色づいていた。
北海道えぞちはまだ残雪が残っているというのに、奥州南部領ではもはや初夏の感があった。
歳三も、眼を細めた。なつかしかった。久しぶりで故国にもどったような感慨であった。
船は万一の敵襲に備えて錨を投ぜず、そのままカッターをおろした。
偵察員は、仏人である。通訳と称して日本人二人をつけた。外国艦と称している以上。歳三ら日本人が偵察してはおかしいからである。
こんどの偵察は、収穫があった。
予想したとおり、宮古湾には官軍艦隊が入港しているというのである。
めざす甲鉄艦もいる、ということであった。
山田村での話では、宮古湾の沿岸漁村は時ならぬ艦隊の入港に大いににぎわっているらしい。
さっそく回天艦上で軍議が開かれ、あす未明に襲撃することにした。
回天、高雄の二艦であたることにした。
蟠竜の到着を待っていては戦機を逸するからであった。
午後二時、両艦は出港した。ところが出港後まもなく、高雄は昨夜の風浪による機関の故障のため船速が極度に落ちた。
洋上で修理をはじめたががちがあかず、脱落せざるを得なくなった。
ついに襲撃は、回天一艦が受け持つことになった。
2024/06/21
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