一方、宮古湾では、官軍の甲鉄艦、春日、陽春、第一丁卯、それに運輸船の飛竜、豊安、戊辰、晨風の八隻せきが錨をおろしていた。
陸兵は、上陸して漁村に分宿している。
甲鉄艦は、鎧武者よろいむしゃがうずくまったような姿で、島蔭しまかげに静止していた。二本マストで、煙突がふつうの軍艦より短い。ごの軍艦も、煙を吐いていなかった。汽罐に火が入っていないのである。いざという時にはまず汽罐焚かまたきからはじめねばならず、行動を開始するまでに相当の時間がかかるであろう。
この日、三月二十四日である。日没前、海軍士官はほとんど上陸した。日が暮れた。
ちょうどその頃、襲撃艦回天は燈火を消し、洋上で刺客が息をひそめて闇やみにひそむような恰好かっこうで、明朝早暁そうぎょうの突入を準備しつつ、宮古湾外の洋上の一点に浮んでいた。闇が、海も艦も真黒に塗りつぶしているから、港内の官軍艦隊は気づかない。
いや、官軍にも眼のある男がいる。
それは海軍の士官ではなかった。陸軍部隊を指揮する参謀黒田了介(薩摩藩士、後の黒田清隆。酒乱ということをのぞけば、政治、軍事に当時これほど有能だった男はめずらあしい)がそれである。
黒田は、沿岸漁村の名主の家を本陣として宿営していたが、その夕方、鮫村方面から流れて来た風聞を耳にした。
「なに、菊章旗をかかげていた?」
と、黒田は部下に念を押した。
「はい、漁民はそう申しております、軍艦は三隻だったといいます。官軍の軍艦でしょうか」
「馬鹿、官軍の軍艦というのは、天井天下、五大州広しといえども、この港内にいるあの四隻だけじゃ。そいつらは、さだめし賊艦じゃろ」
捨てておけない。
黒田了介はすぐ大小を差し、漁船を出させて港内に浮んでいる甲鉄艦を訪ねた。
甲鉄艦には、ほとんど士官は居残っていまかった。
艦長もいなかった。
「それでは、石井は居おろう。居らんか」
お黒田は、若い三等士官をつかまえてどなり散らした。
石井というのは、肥前藩士石井富之助。艦隊参謀の職にある。
「陸おかです」
「女でも抱いちょるのか」
「存じません」
甲鉄艦の乗員、艦長は長州藩士中島四郎、乗組士官はおもに肥前佐賀藩士であった。士風もゆるんでいる。それが最初から陸軍の黒田の癇かんにさわっていた。
「石井、中島を呼んで来い」
「陸軍参謀が御命令なさるのですか」
と、若い肥前訛の三等士官がむっとした。
薩人の参謀の傍若無人さが腹に据えかねたのであろう。
「おい、君はなんという」
「肥前佐賀藩士加賀大三郎です。この甲鉄艦の三等士官をつとめております」
「俺おいは黒田じゃ」
「存じております」
「では訊きく。ここに家が燃えちょる。水を持って来い、と俺はいうた。それが命令か。命令じゃあるまい。早う、陸おかへ走って石井、中島を呼んで来い」
(どうも佐賀のやつは理屈っぽくていかん)
黒田は、艦長室に入った。
船窓からのぞくと、すぐ眼の前に薩摩の軍艦春日艦だけが上陸を禁止していることを黒田は知っていた。
(ほう)
と黒田は室内を見まわし、棚たなの上に二升入りの大徳利が置かれているのを発見した。
黒田は、手をのばして徳利を抱き上げ、傾けて口へ入れはじめた。酒は黒田の生涯しょうがいでいくつかの失敗をさせたが、この時もやはり失敗のうちに入れれば入れられるかも知れない。
一升は入っていた。
またたくまに大徳利から黒田の腹の中へ酒は移された。
飲み終わった頃、甲板に足音が聞えて来て、やがて艦長室の前にとまった。
ドアがひらいた。
石井海軍参謀、中島艦長が、無断侵入している黒田をあきれて見ている。黒田は酔っていた。振り向くなり、
「海軍ちゅうのは斥候ものみをせんのか」
と言った。
この云い方が悪かった。もともと、感情的に溝があった。陸海対立というだけでなく、」中島は長州人であり、しおの点からいっても幕末以来薩摩藩士に対して抜き難い憎しみがある。
「君のいう意味がわからぬ」
「意味ははっきりしている。海軍は斥候を出さぬものかと問うている」
「時には出す。さきほどこの艦の加賀谷大三郎に、火事じゃと申されたそうだが、火事はどこにある」
「火事どころか、敵艦が鮫まで来ちょるこツを知っちょるか」
「黒田さん、ここは南部領だ。南部藩はほんのこのあいだまで奥州連盟に参加していて、おままお賊臭を残している藩だ。虚報はそのあたりから流れたにちがいない」
「虚報?」
「斥候ものみは大事かも知れぬが、斥候の報告の良否を判別するのは良将の仕事だ」
「何ン?」
黒田は椅子いすを蹴けって立ちあがった。
「まあ、よそう」
と石井が言った。
「あなたはしらふ・・・ではない。酒を飲んでいる。そかもそれは私の酒だ」
陸海軍の臨時会議は、これで決裂してしまった。黒田も相手の寝酒を飲み干してしまったという弱味があり、それ以上卓を叩くわけにもいかずに、退艦した。
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