歳三は癇症な男で、一日のうち何度か乗馬用の長靴ちょうかをぬぐう。
馬丁の沢忠助が、
「あっしに磨みがかせとくンなさい」
と頼んでも、歳三はきかない。
武具は自分が磨くものだ、といっている。
靴を「武具だ」と心得ているようであった。
その日の午後も、羅紗ラシャ切ぎれをもってたんねんにぬぐっていた。
小姓の市村が入って来て、「大和屋友次郎どのがご面会で」と言った。
「通してくれ」
歳三は、脂あぶらをすりこんでいる。革に血が滲しみこんでいるのが、どう磨いてもとれないのである。
大和屋友次郎というのは、大坂の富商鴻池こうのいけ善右衛門の手代で、函館築島にある鴻池支店の支配人をつとめている。
鴻池屋と新選組との関係は濃い。
結党早々の文久三年の初夏、鴻池京都店に浪人数人から成る「御用盗」が入ったのを、市中巡察中の近、山南、沖田らがみつけ、路上で斬り伏せたの、縁である。
その後、歳三は近藤らと共に大坂に出張したとき、鴻池から招かれて豪勢な接待を受けた。
このとき、鴻池では隊の制服を寄贈したり、近藤に「虎徹こてつ」を贈ったりしている。
さらに鴻池側から、
── 支配人を推薦してほしい。
という希望があったほどであ。鴻池治安事情のわるいあの当時、新選組と密接になっておくことで自家の安全を期しのであろう。
歳三が北海道に来てからも、鴻池の厚意はかわらず、大坂から函館店に「出来るだけの御便宜をはからうように」とのさしず・・・が来ていたほどである。
友次郎入って来た。
紋服、仙台平、まげをつややかに結いあげている。
まだ年は二十七、八で、英語が多少出来る。
「しばらく見えなかったようだが」
と、歳三長靴をはき、友次郎に椅子いすをあたえた。
「へい、英国汽船の便があったのを幸、横浜へ行って居りましたので」
「ほう、江戸へも?」
「東京の様子も見て来ました。大名屋敷が役所になったり、旗本屋敷に新政府の官員が入ったりして、旧幕時代てのが、だんだん遠い昔のようになってきましたな。世の中が途方もない勢いで動いていようでございます」
「鴻池の商いもいそがしいことだろう」
「なんの、住友などとちがい、大名貸しが多うござんしたからね。薩長土三藩が藩籍を奉還したことはお聞き及びでございましょう。体ていよくいえば奉還でございますが、借金もろとも新政府に押しつけてしまったかたちでございましてな、その新政府が、旧幕時代のことは知らん、とおっしゃる。大坂の富商bなど、五、六軒つぶれるところが出て参りましょう」
友次郎は、官軍の消息も伝えた。彼が帰途、品川から英国船に乗った時、品川沖で官軍の軍艦「朝陽」がもうもうと黒煙をはいていた。横浜でのうわさでは「朝陽」は陸兵の最後の部隊輸送するという。
「行く先は青森だ」
歳三は、にがい顔をした。青森に官軍の陸軍がぞくぞくと結集しているのである。
「ところで」
友次郎、無表情に言った。
「東京から珍客を連れて来ております。手前どもの店の奥座敷に逗留とうりゅうしていただくことにしました。お名前でございますか、へえ、お雪さまで」
「お雪。──」
歳三、がたっと立ちあがった。
「うそだろう。たれからその名を聞いたのか知らないが、私はその種の冗談がきらいだ」
狼狽している証拠に、靴拭ぬぐいの羅紗を、チョッキの胸ポケットに入れた。
「おきらいでもどうでも、お雪さまに相違ございませぬ」
|