~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
再 会 (三)
やがて、歳三はお雪を離した。
いつのまにか、ドアがあいている。茶を運んで来た子供っぽい顔の女中が、お盆を持ったまま、この場をどうしていいかわからない様子で、茫然ぼうぜんと突っ立っている。
「迷惑だったな」
と、歳三は真面目まじめな顔で、女中にびた。
「い、いいえ」
と、女中ははじめて我に返ったらしくひどく狼狽ろうばいした。
「ここへ置いておきます」
「ありがとう。しかし頼みがある。矢立やたてと巻紙を借りて来てくれないか」
女中はすぐ、それらを持って来た。歳三は、小姓の市村鉄之助宛に自分の所在を報/rb>らせるための手紙を書いた。
「築島の鴻池に居る。あすの午後に帰営するだろう」
a と。
文字にこの男らしい風韻がある。
「亀田の五稜郭まで、たれかに届けさせてくれ。そうだ、さっき馬の世話をしてくれた小者がいい。あれはエゾ人の血が混じっているのか」
「混じっているそうです」
女中は、怯えたような表情で、つまずくようなうなずき方をした。
女中が去った後、歳三は、すぐ息苦しくなった。
お雪を連れて、街へ出た。桟橋/rb>さんばしのあたりまで歩いた。
「あの船で来たのか」
と、歳三は、沖合を指さした。三本マストの外国船が、英国旗を垂れて、碧/rb>あおい水面にうずくまっている。
「ええ、鴻池の友次郎さんが、やかましくすすめるのです。横浜から五百三十里もあるというものですから、気が遠くなりそうだったけれど、わずか四日で来ました」
「いつ、帰る」
「あの船が出る日に」
と、お雪はつよめて明るく言った。
そこへ、奇妙な形をしたアイヌの舟が来た。
女ばかりの十人ほどで、櫂/rb>かい漕/rb>いでいる。
掛け声が、内地の人の船頭とはちがう。ソラエンヤ、ソラエンヤと言っているようであった。
「なにを言っているのでしょう」
「さあ」
と歳三小首をかしげて耳を澄ましていたが、やがて、この男にしてはめずらしく冗談を言った。
「お雪の未練、と言っているようだ」
「まあ、そんな。・・・」
「ちがうかね」
「わたくしには、歳のばか、歳のばか、と言っているように聞こえます」
「どちらも本当らしい」
と、歳三は声をたてて笑った。
お雪は裾/rb>すそをおさえた。風が出てきている。
「もどるか」
と、歳三はお雪をうながした。お雪は歩きはじめた。
「いつ、そのお髪/rb>ぐしに?」
と、お雪は見上げた。
歳三は北海道に来てから、まげ/rb>・・を切り、オール・バックにした。髪が多いために、よく似合う。
まげ・・があっては帽子がかぶりにくいから、この髪にした。いつごろからこうなったのか、覚えていない。ここへ来てから、一日すぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私のとって何の意味もない」
「わたくしとの過去も?」
「その過去はちが。その過去の国には、お雪さんも近藤も沖田も住んでる。私のとってかけがえのない過去だ。それ以後の過去は、単に毎日の連続だけのことさ」
「わからない。何をおっしゃっているのか」
北海道えぞちの毎日は、無意味だったように思える。私の一生には、余分のことだったかも知れない。北海道では、今日、今日、という連続だけで生きて来た。ただ、未来だけは、いやにはっきりした姿で、私の眼の前にあるな」
「どんな未来です」
「戦さだよ」
歳三は、ちょっと黙った。
「官軍が、私の未来を作ってくれるのさ。官軍が来れば、各国の領事ミニストルに連絡して異人たちは港内の自国の軍艦にそれぞれ退避させることになっている。それからが、戦さだ。弾と血と硝煙。私の未来には、音も色もにおいもちゃんとついて、眼の前にある」
「あの英国船で」
とお雪が突如言った。いや、突如ではなく何度か反芻はんすうしてきた言葉だろう。── が、
「逃げましょう」
という言葉は、言えなかった。
友次郎が待っていて、洋館のほうに夕食の支度が出来ている、と言った。
二人は、ぜんの置かれている卓子テーブルをかこんだ。
「わたくし、お給仕します」
とお雪が言うと、歳三が笑っ。
「こういう西洋風の場所では、男女同時に食事をしているようだ。船、洋食を食わされたろう」
「ええ、でも」
「困ったろう、牛の肉」
「食べなかったのです。歳三さんは?」
と、お雪、名前で呼んだ。
「食べないさ、牛肉という、沖田が、医者のすすめる肉汁をいやがった。あの顔は今でも覚えている」
「だからお食べにならない・・・?」
「でもないがね。私はb食いものの好き嫌いのおおい人間だから、新しいものはだめだ。近藤は、物食いはよかった。豚肉まで食っていた。あの料簡りょうけんだけはわからない」
歳三は、とどめもなくしゃべりそうだった。自分でも、自分の饒舌じょうぜつに驚いている。
考えてみれば、榎本、大鳥などと北海道えぞちへ来て以来、毎日、数えるほどの回数し、他人と会話を交して来なかったような気がする。
「おれはよくしゃべる」
と、肩をすぼめた。
「あ、船が」
と、お雪が窓の外を見た。
港内はすっかり暮れている。そのやみの海に舷燈げんとうをつけた黒い船体が動いていた。
「警戒なのさ、官軍の軍艦がにわかに殴り込んで来ると困るのでね。もっとも、われわれも出かけたが」
「宮古湾?」
「よく知っている」
「横浜では、外国人の方がよく知っているという話ですけれど。新聞に出ていた、といいます」
「しかし、しくじった。幕府ってものが、三百年の運を使い切ってしまった、という感じだ。何をやってもうまくゆかない」
細い月が昇りはじめたころ、歳三はお雪の体をしめつけているひも・・と帯を解いた。
「いや、たれか、来るわ」
とびらかぎ・・がかかっている」
寝室は、二階である。
寝台もランプも、どうやら船の調度品らしかった。
「自分で、する」
と、お雪がもがいた。歳三は、黙って作業・・をつづけた。
やがてお雪の付けていたすべてが床の上に散り、その中から、お雪の裸形らぎょうがうまれた・
歳三は横倒しにして抱きあげた。
「今夜は、眠らせ」
と、歳三は破顔わらった。
が、涙がお雪の首筋に落ちた。その冷たさにお雪のはだがおびえた。眼をみはって、歳三を見上げた。
(・・・・・)
お雪は不審だった。歳三は、泣いていない。
と思うまにお雪の体が宙で旋回し、やがて歳三の腕をはなれて、寝床の上にうずもれた。
その日、官軍艦隊は上陸部隊を満載して青森を出港、北海道に向かいつつあった。
旗艦は甲鉄艦で、二番艦は春日。以下、陽春、第一丁卯ていぼう、飛竜、豊安、晨風しんぷう。陸軍は長州兵を主力とし、弘前、福山、松前、大野、徳山の各藩の藩兵である。
2024/06/30
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