官軍艦隊、輸送船団が、江差の沖合に現れた頃。歳三はなおお雪の体を抱いてベッドの中にいた。
お雪のまげは、毛布の上ですっかり崩れてしまっている。
(ずいぶんと、好色。──)
お雪は口には出さないが、驚いてしまった。
かつての歳三は、もっと見栄坊で、大坂の夕陽ケ丘の時でさえこうではなかった。
窓が白みはじめたころ、二人はそれと気づかずに眠りに入った。
が、一刻もたたぬまに、歳三はお雪の体を抱き寄せた。
「お雪、どうも、可哀かわいそうだな」
歳三もわれながら可笑おかしかったとみえて、くすくす笑った。
「いいえ、可哀そうじゃありませんわ」
「痩やせ我慢だな。お雪の眼はまだ半ば眠っている」
「うそだ、歳三の眼こそ、まだ夢の中にいるみたい」
「夢の中さ」
歳三には、陳腐な詞藻しそうが、なまぐさいほどの実感で湧わきあがって来ている。
函館の港を見おろす楼上で、いまお雪と二人きりでいること自体が、夢ではないか。
(人生も、夢の夢といおうようなものかな)
これも陳腐だが、今の歳三の心境からみれば全くその通りであった。三十五年の生涯しょうがいは、夢のように過ぎてしまった。
武州多摩川べりでのこと、江戸の試衛館時代、浪士組への応募、上洛じょうらく、新選組の結成、京の市中での幾多の剣闘、・・・それらの幾駒いくこまかの情景は、芝居の書き割りか絵巻物でも見るような一種のうそめいた色彩を帯びてしか、浮かび上がって来ない。
夢である、人も世も。
と、歳三は思った。
歳三は、それを回顧する自分しか、今は持っていない。なぜならば、敵の上陸とともに戦うだけ戦って死ぬつもりでいる。
もはや、歳三には、死しか未来がなかった。
「やったよ、お雪」
と、不意に歳三は言った。
お雪はびっくりして眼をあげた。まつ毛の美しい女である。
「なんのことでございます?」
「いやなに。やったというのさ」
片言で言って、笑った。彼に巧弁な表現力があれば、「十分に生きた」と言いたいところであろう、わずか三十五年のみじかい時間であったが。
(おrての名は、悪名として残る。やりすぎた者の名は、すべて悪名として人々の中に生きるものだ)
歳三は、もはや自分を、なま身の自分ではなく劇中の人物として観察する余裕がうまれはじめている。
いや余裕というものではなく、いま過去を観察している歳三は、歳三のなかからあらたに誕生した別の人物かも知れなかった。
「お雪。──」
と、つよく抱き締めた。お雪の体を責めている。お雪は懸命にそれを受けようとしていた。
歳三は、もはやいま生きているという実感を、お雪の体の中に求める以外に手がなくなっていた。
いや、もう一つある。戦うということである。
それ以外に、歳三の現世はすべて消滅してしまった。
お雪も、歳三のそうおいう生命のうめきというか、最後に噴き出そうとする何かを体中で感じ取っているのか、悲歎ひたんなどはまったく乾ききった心で歳三を受けた。
毛布の上のお雪は体だけになってしまっていた。頭はない。頭などはこの期に何の役にも立たなかった。体だけが、歳三の感情も過去も悲歎も論理も調藻も悔恨も満足も、そのすべてを受けとめる唯一ゆいつのものであった。お雪は夢中になって体を動かした。その温かい粘膜を通して歳三を吸い取ろうとした。お雪は夢中で眼を瞑つむっている。唇くちびるをひらいている。すこし微笑していた。
やがて、歳三は絶え入るように眠った。
お雪は、寝台からそっとおりた。隣室にたしか鏡があったことを思い出した。髪をなおそうとした。
隣室への扉のノブに手をかけたとき、ふと窓を見た。
海が、下に見えた。
そこに函館政府の軍艦がいた。
マストの上に異様な信号旗がひるがえっているのを、お雪はむろん気づかなかった。
すでに官軍は、函館から十五里離れた乙部おとべという漁村に敵前上陸し、付近に駐在していた函館政府軍三十人を撃退し、進撃態勢を整えつつあった。その急報が五稜郭と函館に届き、港内の軍艦にもしかるべき信号が上がっていたのである。
お雪が、髪の乱れをなおし、化粧をととのえ、着物をきちんとつけおわったころ、歳三は眼をさました。
あるいは、お雪の様子をととのえさせるために眼をとじていただけだったのかも知れない。
歳三はズボンをはいた。
サスペンダーを肩にかけながら、窓を見た。
軍艦に信号があがっている。それは、函館市内に居住する外国人に対し、避難を要望する信号だということを歳三は知っていた。
「お雪、支度はできたか」
「ええ」
と、お雪が入って来た。歳三は眼を見張った。もとのきりっとしたこの婦人に脱おとべけもどっていて、たった今寝台の上にいたのは別人かと疑わしくなるほどだった。
歳三は寝台に腰をおろし、足をあげて重い長靴ちょうかをはこうとした。
「来たよ」
「何が来ました?」
お雪は、かがんで長靴の片方をとりあげ、歳三に穿うがたしめようとした。
「敵がさ」
お雪は、息をとめたが、その頭上で歳三が、手を嗅かいだ。
「おぬしの匂いが残っている」
「ばか」
お雪も、苦笑せざるを得ない。敵が、どこに来たのだろうか。
歳三は、何も言わなかった。お雪もそれ以上たずねなかった。
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