歳三は、階下の応接室におりた。すぐこの家のあるじの友次郎を呼ぶように、給仕に頼んだ。
友次郎が、急いでやって来た。
「呼びたてて済まない。函館の府内に避難命令が出たろうな」
「いま出たばかりです。市中のうわさでは、官軍は乙部に上陸したとのことです」
「ただちに函館が戦火の巷になることはあるまい。ここには外国商館がある。港内には外国の艦船もいる。官軍は遠慮して砲撃はすまい。鴻池の商いは続けて行った方がいいだろう」
「むろん、つづけるつもりです」
「いい度胸だ。大坂のあきんどらしい」
歳三は、お雪のことをくれぐれも頼んだ。この男にしては、くどいほどの云いいがさねをして、卓上で小さく頭をさげた。
「頼む」
「申されまするな。鴻池が引き受けた以上は官軍が保障するよりもたしかでございます」
「その厚意につけ入るようだが」
と言って歳三は、部屋の隅に置いていた場嚢ばのうを抱えて来て、中からありったけの金を取り出した。二分金にぶきんばかりで、六十両ある。
「お雪が乗って帰る英国船に、もう一人分の客室をとってもらいたい。これは、その者の運賃だ。余ればその者にそなたの手から餞別せんべつとして渡してもらいたい。そう、品川まで送ってもらう、あとはその者がどこへなりとも行くだろう」
「お引き受けいたしますが、いったい、どなたでございます」
「市村鉄之助だよ。伏見で最後の隊士募集をした時、応募して来た。美濃大垣藩士でなにしろ年があまりに幼すぎた。十五歳だったよ・・・」
「・・・・」
「沖田に似ている、というので採った。本人もよろこんで、関東、奥州、蝦夷えぞと転戦する間、無邪気について来た。これ以上、道連れにしてやりたくない」
そこへ、市村が、乙部での敵上陸の報を伝えるために五稜郭からやって来た。
「友次郎さん、この男ですよ」
と、鉄之助の肩をたたいた。
そのあと、事情を聞いた市村が、泣いて残留を乞こい、腹を切る、とまで言った。
歳三が市村鉄之助に言った内容は、市村の遺談にある。
それによると、
江戸から甲州街道を西へ行くと、日野という宿場しゅくばがある。その宿の名主佐藤彦五郎は、予の義兄にあたる。それを頼って落ちよ。
これは任務である。その佐藤彦五郎にこれまでの戦闘の経過をくわしく申し伝えよ。そちの身の振り方については彦五郎は親身になって世話をしてくれるはずである。
市村は、あくまでも拒んだ。すると隊長は大変にお怒りになって、わが命に従わざれば即刻討ち果すぞ、とおおせられました。その御様子、いつもお怒りになるときと同じおそろしい剣幕でしたから、つい気圧けおされて、とうとうその任務を受けてしまいました。
歳三は、その場で友次郎から半紙をもらい、小柄こづかを取り出してそのハシを二寸ばかり切り取って細い「子切こぎれ紙」をつくり、そこに、
「使いの者の身の上、頼上候たのみあげそうろう。義豊」
と細字でしたためた。
さらに、佐藤彦衛門へ贈る遺品のつもりらしく、写真を一枚、添えた。
洋服に小刀を帯びた姿で、函館へ来てから撮ったものである。これが現存する歳三の唯一の写真となった。
最後に、もう一品、ことづてた。佩刀はいとうである。
京都以来、数え切れぬほど多くの修羅場しゅらばを歳三とともに掻かいくぐってきた和泉守兼定であった。
「鉄之助、たのむ。」そちの口から語らねば、近藤、沖田らの最期さいごも、ついには浮浪人の死になるだろう」
歳三は、後世の批判というのをそれほど怖おそれたわけではなかったろう。怖れたとすれば多少の文才のある彼のことだから、幾ばくかの書き物を残しているはずである。
ただ、縁者だけにでもと、自分の遺品と生前の行跡を伝え残したかったようである。
ことに義兄佐藤彦五郎は、縁者というだけではない。新選組結成当時、まだ会計が窮屈であったころ、しばしば近藤が無心を言って金を送らせた、いわば創設時代の金主といってよかった。金主に新選組の最期を報告する義務は、あるといえばあるだろう。
妙なことがある。
歳三は、ついに市村鉄之助には、同船すべきお雪のことを言わなかった。紹介もしなかった。船に乗れば互に語りあうだろうと、自然に任せたにかも知れない。とにかく最後まで、自分の情事をひとに知られたくない性格を捨てなかった。
お雪も、ついに歳三が居るあいだ、階下には降りて来なかった。夕陽ケ丘の時と同じように、別離を嫌ったのかも知れない。
歳三は、鴻池の店先で馬に乗った。戞々かつかつと十歩ばかり歩ませてから、ふと背に視線を感じて、振り向いた。
お雪が、二階の窓を開いて、歳三をまばたきもせずに見おろしていた。
歳三は、ちょっと会釈えしゃくした。
それだけであった。すぐ姿勢をもとにもどすと、腰を浮かして馬腹を蹴けった。馬は、ひどく姿勢のいい主人を乗せて、亀田の五稜郭へ駈け出した。
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