五稜郭へ戻った歳三は、榎本、松平、大鳥から戦況を聞いた。
「江差も陥ちた」
大鳥が言った。
無理はなかった。乙部に上陸した官軍は千人で、三十人の守備隊はまたたくまにつぶれた。
三里向うの江差には、当方は二百五十人で砲台をもっている。それを官軍艦隊が艦砲射撃でつぶした。
「わが兵は、総数三千を越えぬ。防御軍は攻撃軍よりも数倍の兵力が必要だというが、これでは全島の防衛が出来るかどうか」
と、榎本武揚が、沈痛な表情で言った。
なにしろ、兵力が少ない上に、守備隊を分散させすぎている。五稜郭の本城には八百人、函館三百人、松前四百人、福島百五十人、室蘭二百五十人、鷲わし
ノ木き百人、その他、森、砂原さはら、川汲かわくみ、有川、当別とうべつ、矢不来やふらい、木古内きこないなどに数十人ずつ配置した。
「まず、兵力を結集して、上陸軍の主力に痛打を与えることですな」
と、歳三は言った。
さっそく、分散兵力の集中化が行なわれた。これだけで数日を食った。
が、その完全集中の終わるまでに、歳三と大鳥とは、それぞれ兵五百人程率いて別路、進発した。
大鳥は、木古内へ。
歳三は、二股口ふたまたぐちへ。
その間、松前守備隊が、心形流宗家旧幕臣伊庭いば八郎らを隊長として、官軍占領中の江差にむかい、官軍本隊と遭遇して大いにこれを撃破敗走せしめ、分捕った敵兵器は、四斤ポンド施条砲しじょうほう三門、小砲、ランドセル、刀槍、弾薬など多数にのぼった。
歳三は、二股口の嶮けんに拠よって敵の進撃して来るのを待った。
「官軍を釣つってやろう」
と、歳三は、一種の縦深陣地をつくった。最前線を中二股におき、ついで下二股を中軍陣地とした。
が、これらはいずれも少数の兵を植えるのみにした。
「敵が来れば、小当りに当たってじりじりと逃げろ。相手の行軍が伸びきったところで、本陣の二股口からどっと兵を繰り出して殲滅せんめつする」
四月十二日昼の三時ごろ、官軍(薩、長、備後福山らの兵)六百が、歳三の最前線の中二股に現れた。
山上の歳三の陣地まで、さかんな銃声が聞こえたが、やがて味方は予定の通り退却しはじめた。
中軍陣地も敵と衝突して、退却。
「来るぞ」
歳三は、眼を細めて眼鏡をのぞいている。
上には、十六ヵ所に胸壁を築いて、隊士を撫ぶしながら待った。
ついに来た。
歳三は、射撃命令を下した。すさまじい小銃戦がはじまった。
歳三は、第一胸壁にいて、紅白の隊長旗を高々とひるがえしている。
── 土方さんがいるかぎりは勝つ。
という信仰いんこうが、函館軍のなかにあった。
隊長旗は、三度、銃弾に撃ち倒されたが、三度とも、歳三はすぐ新たに樹たてさせた。
戦闘は夜陰のおよんでもやまず、ついに払暁ふつぎょうを迎えたが、さらに激しく銃戦した。
この一戦闘で歳三の隊が撃った小銃弾は三万五千発、戦闘時間は十六時間という、それ以前の日本戦史にかつてない記録的な長時間戦闘になった。
朝六時、敵はようやく崩れた。
「隊長旗を振れ」
歳三は、全軍突撃の会津をし、旗手に隊長旗をかつがせて、崖がけの上から一気に路上へすべり落ちた。
剣を抜いた。
たちまち白兵戦になり、五分ばかりで敵はさらに崩れ、くだり坂をころぶようにして逃げHじゃじめた。
その敵を一里あまり追撃し、ほとんど全滅に近い打撃を与え、銃器、弾薬多数を奪った。
味方の損害は、戦死わずかに一名という驚くべき勝利だった。
この数日後、官軍参謀から内地の軍務官に急報した文面では、「何分敵は百戦錬磨れんまの士が多く、奥州での敵の比ではない。とても急速な成功はむずかしい。いそぎ援軍をたのむ」という文章になっている。
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