二股は、現在、中山峠とか鶉越うずらごえという名でふつう呼ばれている。
峠道は、北方の袴腰山はかまごしやま(六一三メートル)と南の桂岳かつらだけ(七三四メートル)との間を走っており、歳三の当時には馬が一頭、やっと通れる程度のせまさであった。
典嶮といえる。
歳三はこのこの道の上に最近函館の外国商館から買い入れた西洋式司令部天幕を張り、部下にも携帯天幕を張らせて夜営させた。
身辺に、新選組隊士はいない。数人残っているのだが、諸隊の隊長などをして各地に散らばっているため、二股陣地では洋式訓練兵ばかりであった。
五稜郭の本営からは、榎本の伝令将校が毎日のように来る。
榎本は、戦況が心配でならないらしい。
「だいじょうぶだよ」
としか、歳三も言わない。
何度目かに歳三は、「馬のわらじを損するだけだ。戦況に変化があればこちらから報せる。薩長は天下をとったが、二股だけはとれぬといっておいてくれ」と、この男にはめずらしく広言をはいた。
司令部幕舎の中には、仏人の軍事教師ホルタンも同居している。
陣中、歳三が句帳にしきりと俳句をかきつけていると、ひどくめずらしがって、それは何か、とたずねた。
「ハイカイだよ」
歳三はぶっきら棒に答えると、仏語のややわかる吉沢大二郎という歩兵頭がしらが通訳した。
シノビリカいづこで見ても蝦夷の月
そう句帳にある。
シノビリカとは歳三がこの地に来て覚えた唯一のアイヌ語である。「ひどく佳よい」という意味らしい。
「閣下は芸術家あるていすとか」
と、この仏国陸軍の下士官はちょっと妙な顔をして言った。
「あるていすと、とは何だ」
と、歳三は訊いた。歩兵頭は、「歌よみ、絵師のことだと思います」といった。もっともあるていすと・・・・・・には、「名人」とか「奇妙な人」という意味もある。歳三は、その奇妙な人のほうかも知れなかった。
戦いというものに、芸術家に似た欲望をこの男は持っている。
榎本武揚、大鳥圭介などは、この戦争についての彼らなりの世界観と信念とをもっていた。どうみても彼らは戦争屋というより、政治家であった。その政治思想を貫くべく、この戦争をおこした。
が、歳三は、無償である。
芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている。
そういう純粋動機でこの蝦夷地へやって来ている。どうみても榎本軍幹部のまかでは、
「奇妙な人」
であった。
あるいはこの仏国下士官はそういう意味で旦那だんなはあるていすと・・・・・・かと尋ねたのかも知れない。
二股の攻防戦では、歳三はほとんど芸術家的昂奮こうふんでこの戦を創造した。
血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。
官軍の司令官は、しきりと東京へ援軍を乞うた。
歳三らのすさまじい戦いぶりについて、それらの手紙には、窮鼠きゅうそ必死の勁敵けいてきとか、余程狡猾こうかつ、何分練磨れんま、などという極端な表現が使われており、薩摩出身参謀の黒田了介(清隆)は自軍の弱さを嘆き、
「この官軍(つまり諸藩混成の)ではとても勝算はむずかしい。薩摩兵と長州藩のみが強い。わが藩以外に頼むは長州兵のみで、他の藩兵は賊よりも数等落ちる。嘆息たんそくの至りである。ねがわくば後策(増援)望み奉たてまつる次第である」
と東京へ書き送っている。
ところが、十六日にいたって官軍陸軍の増援部隊が松前に上陸し、さらに艦隊の沿岸砲撃が予想以上に奏功しはじめてから、形勢が一変した。
歳三の二股陣地に各地の敗報がぞくぞくと届いた。
十七日松前城が陥落し、二十二日には大鳥圭介が守る木古内陣地(函館湾まで海岸線七里の地点)が陥ち、このため官軍艦隊が直接函館港を攻撃する態勢をとりはじめた。
「だらしがねえ」
二股のあるていすと・・・・・・は、憤慨した。もはや前線で日章旗があがっているのは、歳三の陣地だけとなった。
官軍は、各地の陣地を掃蕩そうとう
「来やがったか」
歳三は山上で、京のころ「役者のようだ」といわれた厚ぽったい二重まぶたの眼を細く光らせた。
激闘は、三昼夜にわたった。官軍は十数度にわたって撃退されたが、なおも攻撃を繰り返して来る。ついに二十五日の未明、歳三は剣術精練の者二百人を選び、抜刀隊を組織してみずから突撃隊長になった。
旗手には、とくに日章旗は持たさず、緋羅紗ひラシャの地に「誠」の文字を染め抜いた新選組の旗を持たせた。
「官軍には鬼門すじの旗さ」
と、二百人の先頭に立って路上に飛び出し、銃隊に援護させつつ、十町にわたる長距離突撃をやってのけた。
激突した。
歳三は斬りまくった。頃を見はからって抜刀隊を両側の崖に伏せさせる。そこへ銃隊が進出して射つ。さらに抜刀隊が駈かけ込む。
それを十数度繰り返すうち、官軍はたたまらず潰走かいそうしはじめた。
すかさず歳三は山上待機の本隊に総攻撃を命じ、
「一兵も余すな」
と突進した。
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