~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
砲 煙 (二)
それから半刻ばかりあと、とびらのノブをまわす音がして、立川主税たてかわちからが入って来た。立川は甲州戦争のころに加盟してきた甲斐かい郷士で、維新後は鷹林たかばやし巨海と名乗って頭をまるめ、僧になり、山梨県東山梨郡春日居かすがい村の地蔵院の住職になって世を送った。歳三が「歳進院殿誠山義豊大居士だいこじ」になってしまったあと、その菩提ぼだい生涯しょうがいとむらったのが、この巨海和尚おしょうである。
「どうなされました」
と、立川主税がおどろいて歳三をゆり起こした。歳三はさっきの沖田とそっくりの姿勢でふたたび眠りこけていたのである。
「総司のやつが来たよ。近藤も、井上も、山崎も。・・・」
と、歳三は身を起こしてあぐらをかくなり、ひどくほがらかな声で言った。
立川主税は、気でも狂ってしまったかと思ったらしい。平素の歳三とはまるでちがう表情だったからである。
歳三は、このあと、新選組の生き残り隊士を呼ぶように命じた。
みな、来た。馬丁の沢忠助も来た。みな・・といっても、十二、三人である。その中で京都以来の最古参というのは旧新選組伍長ごちょうの島田塊、同尾関征一郎(泉)ほか二、三人で、あとは伏見微募、流山徴募といった連中だった。それぞれ、歩兵大隊の各級指揮官をしている。
「酒でも飲もうと思った」
と、歳三は床の上に座布団を一枚ずづ敷かせ、さかなはするめだけで酒宴を張った。
「どういうおつもりの宴です」
「気まぐれだよ」
歳三は、何も言わなかった。ただひどく上機嫌じょうきげんで、かえってそれがみなを気味わすがせた。
一同にその意味がわかったのは、翌朝になってからである。兵営の掲示板に、昨夜会同した連中が一斉に異動になっていた。全員が、総裁榎本武揚付になっている。
この日、函館が陥ちた。
永井玄番頭ら敗兵が五稜郭へ逃げ込んで来た。もはや残された拠点は、弁天崎砲台、千代ケ岱砲台、それに五稜郭にみであった。
「土方さん、あなたが予言していた通りでした。敵は函館山から来そうです」
と、榎本はあおい顔で言った。歳三はどう考えても不審だった。自分はたしかに予言していたが、日まで予言しなかった。どうも昨夜の夢は夢ではなく、近藤らがわざわざそれを云いに来てくれたのかも知れない。
「あす、函館へ行きましょう」
と、歳三は言った。
榎本は、妙な顔をした。もはや市街は官軍で充満しているではないか。
軍議が開かれた。
榎本、大鳥は籠城を主張した。歳三は相変わらず黙っていたが、副総裁の松平太郎がしつこく意見をもとめたので、ぽつりと、
「私は出戦しますよ」
とだけ言った。陸軍奉行大鳥圭介が、歳三への悪感情をむきだした顔で言った。
「それでは土方君、意見にならない。ここは軍議の席だ。君がどうする、というのをきいているのではなく、われわれはどうすべきかという相談をしている」
のちに外交官になった男だけに、どんな場合でも論理すじだて明晰めいせきな男だった。
「君は」
と、歳三は言った。
「籠城説をとっている。籠城というのは援軍を待つためにやるものだ。われわれは日本のどこに味方を持っている。この場合、軍議の余地などはない、出戦以外には。──」
皮肉を込めて言った。籠城は、降伏の予備行動ではないかと歳三は疑っているのだ。
松平平太郎、星恂太郎らは歳三に同調し、翌未明を期して函館奪還作戦をおこすことになった。
偶然、官軍参謀府でもこの日をもって五稜郭総攻撃の日と決めていた。
2024/07/06
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