~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
トリスバーの客 (七)
物盗り説は完全に消え、怨恨説にかたまった。
「被害者は五十四五歳ぐらい。労働者ふう。東京に原籍地はないが、東京で働いている者、出身は東北地方、そして『カメダ』という人物を知人に持っている男」
これが、捜査本部が作った被害者の人間像だった。
被害者が、一見、労働者だという推定から、都内の安アパート、安宿などを中心に、聞き込みを行なうことにした。
夕刊には、この事件が大きく乗ったので、もし被害者の家族があれば、すぐ届け出があるはずだった。だが、それは、その後、二日っても、どこからも届け出はなかった。
また、当人が蒲田駅の近くのバーで飲んでいるところから、被害者は蒲田駅を中心にそれほど遠くない場所に住んでいるという推定は容易だった。それで、本部はおもに大田おおた区の捜査に当たった。
だが、めぼしい成果はあがらなかった。
蒲田駅前のバーで飲んでいたからといって、必ずしも、その付近に居住しているとは限らないだろう」
という意見を出す係官もいた。
「蒲田駅は、国鉄も通っていれば、目蒲線、池上いけがみ線の分岐点でもある。それで、被害者は目蒲線や池上線の沿線に住んでいることも考えられるよ」
それももっともな意見だった。そうなると、捜査範囲をずっと拡大しなければならない。
「しかし、国鉄は、横浜よこはま桜木町さくらぎちょう駅から埼玉県大宮おおみやまで往復している。だから、必ずしも二つの私鉄沿線とは限らないと思うよ」
と、新しい意見を出す者がいた。
これだと桜木町から大宮までの間の沿線が全部入ることになり、捜査範囲は拡大するわけだった。
「それも理屈だが」
と、係長は言った。
「国鉄沿線というよりも、やはり、蒲田駅が二つの私鉄の分岐点ということに着眼した方が、自然では」ないかね。当人たちが、トリスバーに寄ったのが夜の十一時半ごろなのだから、やはり、二つの沿線の居住者と考えた方がいいようだ。現に、証言しているバーの客は、終電車に近い電車で帰るつもりでいた沿線のサラリーマンだった。同じようなことが、その二人についても言えるのじゃないか」
意見は、ひとまず、それにまとまった。
「いろいろ、目撃した証人の話を聞くと、被害者は東北弁を話していたが、加害者は、ほとんど、ものを言わなかった。加害者の言葉の方はどうなんだろうね?」
「いや、それは、被害者の連れ、つまり、加害者と目される男が、例のカメダのことを、相手に聞いています。『カメダは今も相変わらずでしょうね?』というのは標準語ですが、アクセントにわずかに東北ふうの感じがあった、とそのトリスバーの女給は証言しています。話の調子からみても、この二人は東京での知り合いではなく、東方地方の同郷の者と思われますが」
係官の一人がそう言った。
2024/07/13
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