~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
トリスバーの客 (十)
「困ったな」
会議の席で、捜査主任は顔を曇らせた。
「東北地方と、われわれが限定したのがまずかったかもわからない。共通の友人カメダは何も東北地方の人間とは限らない。あるいは東京の者かもわかrないし、西の方に居住している人かも知れない。
それは、捜査主任のいう通りだった。
これまで、東北弁を話していたことから、カメダも当然東北地方にいるか、あるいは、その出身者と考えられていたが、それ以外の地方の人間かも知れないのである。
この事件の新聞報道には、カメダのことも記事になっていた。それをもっと新聞紙面で強調してもらい、全国の「カメダ」氏から情報を寄せてもらうことに決めた。
これ以外に当面の手はなかった。最初、捜査本部では気負い込んで「カメダ」にしぼったのだが、まず第一回は失敗であった。
一方、被害者と犯人との足取りは、依然としてわからなかった。
重点は、被害者が蒲田駅前のトリスバーに現れるまでの足取りにおかれた。
だが、これも最初の捜査と同じように、一向に発展がなかった。
刑事たちは、連日、重い足をひきずって聞き込みにまわった。彼らが捜査本部に帰ったときは、いずれも疲れ切った顔をしていた。
何か獲物えものがあると、どのように疲労していても、顔色が輝いているものだが、何もないと、しなびたような元気のない顔になる。
要するに捜査は困難な状態から、悪くすると迷宮入りになりそうな様相を呈して来た。
刑事の今西いまにし栄太郎えいたろうも、その疲労した一人だった。四十五歳の彼は、捜査本部に帰って、お茶を飲むのも何か気がねのようだった。
今西の担当は、主として池上線沿線の安アパートや安宿などの聞き込みだった。彼は事件が起きて、もう十日もこの方面ばかり歩いていた。
その日も何もないままに、ぼんやりと本部に帰って来た。
それからすぐに会議である。先発の捜査員たちが持って帰った材料を主として検討するのだが、京もめぼしいものは何もなかった。会議の空気は、焦燥しょうそうと疲労だけである。
それが連日のように続くと、懶惰らんだに似たものが疲労の上に、おりのようにおりてゆく。
今西栄太郎が自分の家に帰ったのは、夜の十二時近くだった。
狭い玄関の格子戸こうしどは、内側からを消している。今夜も彼が帰らないと思ったのか、錠が掛けてあった。彼は格子戸わきのブザーを押した。
しばらくすると、内に灯がつき、妻の影がガラス戸にした。
「どなた?」
妻は格子戸越しに聞いた。
「おれだ」
外に立って、今西はこたえた。
格子戸が開いて、妻の芳子よしこが顔を出したが、あかりで肩だけが明るかった。
「お帰んなさい」
今西は黙って入り、くつを脱いだ。靴のかかともこの三四日で急に減ってしまって、靴脱ぎの上で傾いた。
二畳の玄関からすぐに四畳半に入った。布団ふとんが三つ敷いてあって、眠った男の子の顔がその中にあった。今西栄太郎はじゃがんで、十歳になるその子のっぺたを指で突っついた。
「だめですよ、起こしては」
妻が後ろからとがめた。
「十日も続けてこの子の起きている顔を見ないと、ゆり起こしてでも話をしたくなったよ」
「明日もお帰りは遅いんですか?」
妻は聞いた。
「どうだかわからない」
今西はあきらめて子供の枕元から立ち、。次の六畳の座敷にすわった。
「少し召上るでよう?」
妻は聞いた。
「夜食だから、お茶漬ちゃづけ程度でいい」
今西は足を畳に投げ出して言った。
「一本つけますよ」
妻は笑いながら台所におりた。
2024/07/16
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