~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
カ メ ダ (一)
今西栄太郎は、夕方の六時ごろ自分の家に帰った。
妻は目をまるくした。
「ずいぶん、お早いんですのね」
「早いもんか、出張だ。今夜、すぐに発たなきゃあならん」
今西は、くつを脱ぎ捨てて座敷にあがった。
「へえ、どちらへですか?」
「東北の方だ。秋田の近くだ」
今西は詳しいことは言わなかった。ここで亀田の名前を出すと、また、うるさく、からまれそうである。
こういうときの刑事の行動は、誰にも秘密にしなけらばならなかった。妻の芳子は口は堅いが、それでも何かの拍子に夫の行先がひょっと口の先に出ないとも限らない。今西は用心深かった。
「何時の汽車ですか?」
妻は聞いた。
「上野を二十一時」
「ああ、では、あの事件の犯人があがったのですか?」
妻は目を輝かした。
「そんなことはない。ホシなんか、ちっとも割れていない」
「では張込みですか」
「違う」
今西は、少々、不機嫌ふきげんになった。
「でも、よかったわ」
妻は、ちょっと安心した。
「何がよかったんだ?」
「だって、張込みや、犯人の受け取りに行くのだったら心配だわ。ただの聞き込みだったら、危なくないから安心しますわ」
妻はそんなことを言った。
今西は、これまでホシの立ち回り先と思われる地方の張込みに出張したことがある。そんな時の気苦労は並たいていではない。うかうかすると、犯人が立ち寄ったのを知らずに、あとでえらい失策を暴露することがあるのだ。今西もその経験を二度ほどしている。
それと、犯人の護送となると、これはまた別な意味で危険だった。というのは、犯人は、列車輸送の途中、逃走を企てがちだからだ。彼にはそのような経験はないが、同僚のあいだにはあった。便所に入って窓を破って逃げたり、途中から手錠のまま進行中の列車から飛び降りたりする。そういうときの刑事は帰署もつらくなる。
妻が、安心だわ、と言ったのは、その両方の危険がないからである。実のところ、今西自身も、今度は、少し気が楽だった。
その亀田という土地に行って、聞き込みだけをしてくればいいわけである。だが、そこで成果があがらなかったら、これまた、別な意味で捜査本部はちょっと面目を失う。
もともと亀田という地名を発見し、今度の出張のきっかけは、今西自身がつくったようなものだった。責任はある意味において重かった。
「ごいっしょなさるのはどなたですか?」
刑事の出張は一人で行くことはない。必ず二人いっしょの組になっていた。妻の質問はそれを知っているからである。
「吉村君だよ」
今西はぼそりと言った。
「吉村さん、ああ、去年の正月にいらした若い方ね。こちらにいらっしゃるのですか?」
「ここに来るもんか。離れ離れにハコに乗り込むのだ」
今西栄太郎が、上野駅着いたのは午後八時四十分だった。
すでに、ホームには秋田行急行「羽黒はぐろ」がはいっていた。
今西はあたりをそっと見まわした。新聞記者らしい姿は見えなかった。
それでも、彼は用心してすぐには列車に乗り込まず、ホームに出ている売店に寄って煙草たばこを一つ買った。同僚の吉村の姿は、もちろん見えない。
買った煙草をその場で一本すい、顔を知った者はいないかとおもむろにあたりをうかがうつもりだった。
すると、とたんに後ろから肩をたたかれた。
「やあ、今西さん」
今西は、びっくりして振り向いた。S新聞社の山下という記者の顔がにこにこと笑っている。
「今ごろ、どちらへですか」
今西は悪いところを見つかったと思った、だが、そいんなことは顔色に出さずに言った。
「新潟にちょっと用事があってね」
「新潟?」
思いなしか、山下の目がぎらりと光った。
「へえ、新潟に何かありましたか?」
「何でもないさ」
今西は、そう答えて、とっさの理由を考えていた。
「おかしいじゃありませんか。あんたのことは、例の操車場殺しでてんやわんやでしょう。それなのに、新潟にゆうゆうと出張というのはクサいですな」
「クサくはないですよ」
今西は、わざと怒ったように言った。
「新潟は、ぼくの家内の郷里さとでね。義父おやじが死んだんだ。それで駆けつけるところさ。さっき、電報が来てね」
「そうですか。それはご愁傷しゅうしょうさま」
山下は、一応、そう言ったが、
「それにしても、奥さんの姿が見えませんね?」
とあざ笑った。
今西は心の中でしまった、と思った。が、すぐに立ち直って、
「電報は、昼ごろ来たんでね。家内は先に出発したんだよ。ぼくは例の事件のことがあるので、ちょっと、遅くなったんだ」
「そうですか」
さすがの山下も、ついに、これにひっかかった。
「君は、また、こんなところをうろうろして、どうしたんだね」
今西は逆に聞いた。
この男に、一緒に列車に乗られては困るからだ。
「いや、ぼくはまた新潟から来る人を出迎えているんですよ」
「ああ、そうか。それはご苦労さまだな」
今西は安心した。
「では」
今西は、わざと手を振って、ゆっくりとホームを歩いた。
「さようなら」
山下も見送った。
今西は、わざわざ反対の方角に一度歩いた。適当なところで後ろを振り返ってみると、もう、新聞記者の姿は見えなかった。今西はほっとした。それから、彼は、さらに用心しながら、人ごみの中に隠れるようにして逆戻りし、列車の最後部に飛び乗った。
2024/07/20
Next