~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
カ メ ダ (四)
今西はそれを聞いて、蒲田駅の近くの飲み屋で被害者と一緒にいたという男を思い出した。その男の年齢も、目撃者は三十歳とも言うし、四十歳とも言っている。
風采が労働者というところも同じである。今西の耳は自然に署長の話に熱心になった。
「それから、どういうことがありましたか?」
「いや、それだけです。べつに何があったというわけではありませんが、宿料の支払いも約束どおり、ちゃんと前金で払ったそうです。それに係り女中にも五百円のチップをやったそうです。この辺で女中に五百円もやる客は、ちょっとませんがらね。宿ではあどで、それならも少しええ部屋に通せばよがった、と、くやんだそうです」
「・・・・」
「なんと言っても、風采がそんな具合ですからね、宿の方の警戒心も最後まで取れながったわげですな」
「その男は、宿でどんなことをしていましたか?」
「その男が着いだのは夕方でしたが、食事が終わると、疲れた、と言って風呂ふろにも入らないで、グウグウ寝ていだそうです。それで、宿ではよけいに気味が悪かったわげですがね」
「何か気味の悪いことが起こったのですか?」
「気味が悪いといえば、こういうこどがあったのです。その男は、十時過ぎまで眠っていましたが、途中で起きると、女中を呼んで、この宿は何時まで表をあげているかときいたんだそうです。女中が、一時ごろまでは起ぎている、と言うど、それなら、ちょっと用があるから、出て来る、と言って、宿の下駄を履き、外出したそうです」
「十時過ぎから外出したのですね?」
今西は話を聞いて念を押した。
「そうです」
署長は答えてつづけた。
「それでその客が宿に帰って来たのが午前一時過ぎだったそうです。言い忘れましたが、その男は肩掛鞄かたがけかばんを一つ荷物に持っていたそうですが、それは宿に置いて出だそうです。この辺では、どの家も夜は早く戸を閉めます。だから十時過ぎから出かけで一時ごろまでその男が何をやっていだかわがらないわけです。これが普通の都会地なら、少しもおかしなところはありませんがね。こういう土地だと、妙にそれが目につぐのです」
「そうでしょうな。それで、外出から帰った時は、別にその男の挙動に変わった様子はなかったのですか?」
「変わった様子はなかったそうです。別に酒を飲んだ様子もなく、出で行ったとぎと同じよう否様子だったそうですよ。女中が、どこまでおいでになりましたか、と聞くと、ついそこに用事があったので、用足しをしてきたと答えたそうです。ですが、十時を過ぎて用足しもないので、宿でもちょっと変に思ったそうですかね。それで私の方の署員が聞き込みに行ったとぎ、その話が出たのです」
「なるほど、で、その男の宿帳は、残っているのでしょうね?」
「残っています。私の方で、それを押収してもよがったのですが、あなた方が見えるという話で、わざと、宿にそのままにして置いてあります。何でしたら、そこのところだけをお引きあげになってもいいですよ」
「それはどうも、そのほか、変わったことはありませんか?」
「宿屋ではそれだけです。その男は、朝八時過ぎにはもう出て行ったそうでうがね。それでも、朝の給仕のとぎに女中がきいています。これからどちらへお出かげですか、とたずねると、汽車の乗って青森の方へ行ぐのだと言ったそうです」
「宿帳には住所がどう書いてありましたか?」
「それは茨城県の水戸みと市です」
「ははあ、水戸の人間ですか?」
「宿帳には、そう書いてあります。しかし、本当かどうか、あなた方でお調べになるとわがると思います。女中が、水戸はいいところでしょうね、と言うと、水戸付近の名所を話していだそうですよ。ですから、まんざら、水戸に縁のない男でもなさそうです」
「職業は?」
「宿帳によると、会社員とあったそうですがね、どこの会社に勤めているかは聞かなかったそうです」
「すると、その夜中の三時間の外出がおかしいというわけですね」
「そうです。いや、ただそれだけでしたら、別にあなた方にここまでご足労かけるこどはないのですよ。そのほがにも、ちょっと変わったことがあるのです」
「ははあ、それはどういう?」
「一つは、干しうどん屋の前をその男がうろうろしていだことです」
「干しうどん屋といいますと?」
「亀田はいま申しましたように、干しうどんの名産地です。ですから、その業者の家の横には干しうどんがさらしてあるわげですがね。そこに彼が現れたのです」
2024/07/24
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