~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
カ メ ダ (十二)
外は暗いやみが走っている。時おり、山辺の方に遠い人家の灯が寂しく流れるだけだった。
「ねえ、今西さん」
と、吉村は言った。
「この妙な男が、うまくホシと結びつくといいんですがね」
「そうだな、そうなると、われわれの出張も無駄ではなかったわけだからな」
「やっぱり、このくらいの聞き込みでわざわざ遠い所にやって来て、それがあとで、事件とは何でもないとわかると、ちょっと寝覚ねざめが悪いですな」
吉村は、遠い出張のことをしきりと気にかけていた。捜査本部の費用は切り詰められている。だから、その少ない費用の中から遠地の出張が気にかかってならないのだった。
「それは仕方がないさ。その時は、ほかの諸君に勘弁してもらうんだな」
「そうですね、しかし、なんですな、今西さん。ぼくらがこうしてのんびりと汽車に乗っている間にも、ほかの人たちは懸命に動きまわって捜査をやっているかと思うと、ちょっと相すまないような気持になりますね」
「吉村君、これも仕事だからね。そう気にかけることはないよ」
今西は、若い吉村をそう慰めたが、その気持は吉村以上に切実だった。
目下の捜査は行きづまっている。もし、捜査の進展が活発だったら、こんなことでわざわざ秋田県くんだりまでやって来はしないのだ。捜査主任も焦っている証拠だった。
ことに、この亀田という土地を割り出したのは今西だから、この出張の責任が彼の気持に重くかぶさっていた。窓の方を浮かぬ顔で見ていた今西が、ふと、つぶやいた。
「スポーツシャツは出て来ただろうかな・・・・」
吉村がそれを聞き咎めた。
「スポーツシャツですって?」
「そうさ、加害者が着ていたものだよ。あれは、被害者を殺した時に返り血が相当ついているはずだ。そのまま着てはいられないから、どこかに隠しているはずだ」
「ホシはそういうものを、よく自宅に隠しますね」
「そういおう例は多い。しかし、この事件の場合は、もっと別な考えがありそうだ。といおうのは、君」
と、今西は言った。
「相当血痕けっこんがついているいとすると、ホシは着て家まで帰ったかどうか疑問だと思うね。人に見とがめられるようなおそれがあって、果たして、それを着て帰ったかどうかわからん」
「しかし、あれは夜ですよ」
「夜だ。だがね、たとえば遠い所に加害者の家があると考えると、まさかそんな格好で電車には乗れないだろう。タクシーだって運転手に怪しまれるよ」
「自家用車がありますね」
「自家用車はある。それは考えられるがね。だが、ぼくはね、ホシがそのスポーツシャツを着替える中継地がどこかにあるような気がするよ」
窓の外は、相変わらず闇が流れて行く。
乗客の中で気の早い者は、もう寝る用意にかかっていた。
「ホシが血のついたものを着替える中継地というのは、考えられますね」
吉村は言った。
「すると、それはホシのアジトということになりますね?」
「そういいうことになるだろう」
今西は何を考えているのか、暗い外を眺めながらぼそりと言った。ポケットから半分に切った煙草を出して喫っている。
「では、アジトというのは、ホシのイロでもいる所でしょうか?」
「さあ、そいつはわからない」
「しかし、当然、そこでは着替えをするわけですから、まさか空家ではないでしょう。誰かがいるはずです。すると、よほどホシと特殊な関係にある人間でないと困るわけですね」
「そりゃそうだ」
「イロでなかったら、よほど親しい友人とか、兄弟とか、そんなことでしょうか?」
「まあね」
こうなると、今西は多くを語らない。老練なだけにひとりで物ごとを考えたがっていた。
若い吉村は、日ごろ、いつも今西のそばにいるのではなかった。吉村は、事件の起こった地元の所轄署しょかつしょの刑事である。ただ、以前に、ある殺人事件が起こり、そのときも本庁から来たこの今西と組になった。それ以来、この後輩刑事は、今西を尊敬していた。
むずかしい事件があると、彼に彼に聞きに行ったりした。そんなことで、今西の性質や趣味もわかっていたし、その家族の者とも知り合っていた。
何か、いい筋をつかんだとなると、同僚にもしゃべらないのが今西刑事のやり方であった。報告の時も、直接に捜査一課長のところに行くことさえある。
捜査一課の一係は殺人専門だが、部屋は八つに分かれている。各部屋ごとに刑事がだいたい八人ずつで、本部係となると、この、どれかの部屋が出動するわけであった。
八人の刑事は、それぞれ独自の立場を持っていた。一応、主任警部の指揮を受けて動くが、ホシについていい筋を摑んだとなると、今度は個人的な捜査にかかる。誰にしても功名心はあるのだから、これはいたし方がない。捜査会議の席で刑事たちが必ずしも手の内を全部さらけ出すとは言えないのは。こんなことからである。
古い型といえばそれまでだが、この今西刑事などは、そういうやり方を長く信じて歩いて来た一人であった。何を考えているのか、ある一線まで来ると、他人には石のように黙り込んでしまう。
「もう寝ようよ」
今西は退屈そうに煙草の吸殻すいがらをすりつぶして言った。
「そうですね」
「朝は何時に着くんだって?」
「六時半です」
「そんない早ければ、まさかブン屋の出迎えもないだろう・・・・。しかし、贅沢な出張をさせてもらったな」
2024/08/07
Next