このとき、会場に一つの小さな変化がおこった。
その変化の渦は入口の方からはじまった。文化部長がふとその方を振り向いたが、何に驚いたか、若いグループをそこに残すと、人びとを押し分け、あたふたと歩いて去った。
残っている若い連中はその方角を凝視した。いましも、ある老大家が、こも会場に遅れて馳せつけたところだった。
しかし、馳せつけたという言葉は適当でない。大家は年老いている。立派な着物に仙台平の袴をつけ、白足袋をはいていたが、実にゆったりとした歩き方で会場の中央に進んでいるのだった。まるで子供の歩き方のように遅い。左右からそれを支えるようにして寄り添っている者がいたが、むろん、これは付添ではなく、会場に居合わせた来賓が、逸早く大家を見つけて、走り寄ったのである。
老大家の後ろからも、二三人の者が従っていた。老大家の通る行く手は、会衆が道を開いて迎えた。
大家は、年齢七十ぐらいに見えた。人びとは尊敬と阿諛をまじえた笑顔でおじぎをした。
老大家は、それににこやかに会釈しながら、よちよちと赤ン坊のように歩いてゆく。社の幹部が先導して、この高名な老大家を上座に一角に案内した。
そこだけは、ソファーが四つか五つ並べられ、美術界、学界、文壇など、あらゆる方面にわたっての大家がつどっていた。
その中の一人が、新入来の大家を見て、急いで席を立って譲った。小さな渦とは、その老大家の入来のために起きた、会場のちょっとしたざわめみだった。
「見ろよ」
遠くからこれを眺めていた関川が、仲間に顎をしゃくった。
「あそこにも一人、古色蒼然がやって来たぞ」
居合わせた若い仲間は、みんなニヤニヤしていた。
「あれなんか、亡霊の最たる者さ」
「一番ずうずうしい利食い者だな」
あらゆる既成の権威を、この若い連中は、否定していた。既成の制度やモラルを破壊してやまないのが“ヌーボー・グループ”に所属する青年たちの主義だった。
「だらしがないね」
と、関川が冷ややかに言った。
「見ろよ。浅尾芳夫なぞは禿げ頭をぺこぺこさしてるぜ」
高名な批評家が、その太った図体を、しきりと老大家にかがめていた。ところが、老大家の方では、突き出した下唇を微かに動かしただけで、この高名な批評家の敬意など歯牙にもかけていなかった。老大家は、わざわざこの会に、湘南の隠宅から上京して来たのだった。
たちまち、老大家の周囲に人が集まった。R新聞社の社長が、ていねいに大家の前に出ておじぎをしていた。
フラッシュが大家の顔にしばらく閃光をつづけた。
「浅尾芳夫なんか俗物だね」
と、関川が冷笑した。
「書いているものを見ると、もっともらしいことを言っているが、あのザマを見ると、しょせん、奴だって、権威の追随者だよ。あわれむべき奴だ」
ふと関川重雄が途中でみなの顔を見まわした。
「ところで、和賀はどこへ行ったのかな?」
関川重雄が、和賀はどこへ行った、ときいたのは、若い作曲家の和賀英良のことだった。
「和賀なら、大村泰一氏のところにいるよ」
「大村さん?」
「ほら、例の老人連中のたまり場さ」
関川重雄は、首をまわした。さっき、老大家がすわったばかりの席だった。もっとも、ここと、その席との間には、絶えず人が群れあっているので、定かにはわからない。
「ふむ」
関川重雄に、軽い反発の色が表れた。
「やつ、なんであんな男のところにのこのこ行くのだろう?」
これはひとりでに出た呟きに似ていた。
大村泰一は、当代の碩学である。大学の学長の経歴を持ち、古いリベラリストとして、あまりにも高名だった。
「そりゃ仕方がないさ」
と、劇作家の武辺豊一郎が言った。
「なにしろ、大村氏は、和賀のフィアンセの親戚だからな」
「そうか。なるほど」
関川は応えたが、かえって反発の表情は濃くなった。
演出家の笹村一郎が人の群れの中から抜けて現れた。
「よう」
彼のくせで、挨拶はかえって顎を上に向けるのである。
「揃ったね」
と、彼自身が満足そうだった。
「どういだい、この会の帰りに、みんなでどこかに押し出そうか?」
賑やかなことが好きな青年だった。
「よかろう」
劇作家の武辺が応じた。演出家と絶えず付き合っているので、ウマが合った。
「関川、君はどうだい?」
笹村が言った。
「そうだね」
関川は、ちょっと考える顔をした。
「君がそんな顔つきをすると、なんでも曰くあるげに見えるから妙さ」
演出家が軽く笑った。
若い批評家の関川重雄は、その論争が先鋭的なことで知られていた。これまで、大家に食ってかかったことも一再ではない。人を人と思わない、その不逞な度胸が、若い世代に喝采を博した。相手が不快な感じを起こそうが、かまうことはなかった。
ふたたび断わったおくが、このグループは、これまでいっさいの既成概念や、制度や、秩序を破壊するためにあった。若い年齢ばかりである。
「関川」
と、演出家はまだすすめた。
「日和見主義は、君の最も糾弾するとことだろう。われわれの提案に逡巡するな」
演出家は、冗談を言った。 |