このとき、向うの席から、人びとの間を和賀英良が帰って来るところだった。
女のような顔の白い青年だった。髪の生えぎわも婦人のようにやさしい。
「和賀先生」
会衆の中から近づいて来て呼び止めたのは、先ほどまでステージで歌っていた村上順子だった。
「先生」
呼び止めた歌手は、人前もはばからず、和賀英良に宛然たる挨拶をした。光ったイブニングドレスの裾を摘まみ、羽のように広げて、上半身を沈めた。
「やあ」
和賀英良は、立ち止まった。歌手から見ると、弟のように幼い顔つきをしていた。だが、歌手の方がかえって彼に気遅れした表情をしていた、
「もう先から、先生にお会いしようと思ってたんです。お願いがあるんですが、伺ってよろしいでしょうか?」
先生と呼ぶには、およそ似つかわしくない年齢だった。
和賀英良は二十八歳という年より、まだ若く見える。
「何ですか?」
和賀は傍若無人に、この美人の名高い歌手の顔に目を据えた。そのたじろがない視線に、歌手は顔をあからめた。ふだんは、そのような弱い気性の女ではないのである。
「いいえ、今度お目にかかってから申し上げますわ。お願いごとなんですの」
「ここでは言えませんか?」
和賀は表情を崩さなかった。
「ええ、ちょっと」
歌手は口ごもっていた。
「そう。だが、ぼくも忙しいもんですからね」
「よく存じていますわ。でも、わたくしの仕事のうえでの大事なお願いごとなんですの。ぜひ、お目にかからせていただきたいんですの」
「電話をください」
和賀は言った。
「あの、いつでもよろしいんでしょうか?」
歌手が気がねした。
「電話だけならね」
和賀は言った。
「なにしろ、いろいろと用事が多いので、電話をいただいても、すぐにお目にかかれるかどうかわかりませんよ」
およそ愛想というものがなかった。
だが、この無礼な言い方にも、人気歌手は腹を立てなかった。
「よく存じておりますわ。では、近いうち、お電話だけ差し上げます。よろそくお願いしますわ」
美しい歌手は、上気した顔を微笑させて、ドレスの裾を摘まんで、また体を折った。
周囲の連中が、無愛想に歌手のそばから離れて行く新進作曲家の颯爽とした後ろ姿を見送った。
和賀英良が若い仲間のところに来たときは、その表情が自分のものになっていた。
「よう」
彼は関川重雄と淀川龍太に微笑を向けた。
「しばらく」
と言ったのは、淀川の方へである。それから、関川にはこの間はどうも、と言った。東北地方のロケットの見学に行った同行のことを言うのである。
「なんだい、今のは?」
関川が村上順子の挨拶の場面を眺めていたらしく、薄ら笑いをして聞いた。
「なに」
和賀英良の若い眉に冷笑が出ていた。
「ぼくに用事があると言うんだがね。どうせ自分のために作曲をしてくれと言うのだろう。向う見ずの女さ」
「そんなのがいるよ」
関川がすぐに言った。
「なんとなく、新しい方向に目を向けたがっている。ところが、当人は、本質的にはそうじゃないんだ。自己の宣伝や、保身のために、われわれを利用しようというだけの話で、その根性が見え透いているね。ぼくんとこにも似たような奴がやって来るよ」
「だから、身の程知らずというのさ」
和賀は言った。
「あんな通俗な歌ばかり歌っている女に、おれの芸術がわかるはずがない。目新しさだけ狙ってるんだな。だいたい、おれがあんな奴のために仕事をするとでも思っているのか」
給仕が、銀盆に乗せたグラスを持ってまわってきたの¥で、和賀英良は、ハイボールのグラスを盆の上からえらんだ。
「どうもおもしろくない会だな」
建築家の淀川が言った。
「もう、この辺でずらかろうじゃないか。どうせ、こんなとことに長くいたって、われわれには何のプラスにもならないよ」
「いや、そうではない」
と、関川がしかつめ顔に言った。
「少なくとも、過去の老廃した連中を見ただけでも、参考になった」
「さっきも、相談していたんだがね」
と、建築家が横から作曲家に言った。
「みんなで、これから銀座あたりに足を伸ばそうというんだ。君、どうだい?」
「そうだな」
和賀英良は、ちらりと腕時計を見た。
「何か約束があるのか?」
関川が笑いして聞いた。
「ないこともない。少しの間だったら、つきあうよ」
和賀のこの返事を、関川重雄は少し眉をよせて受け取った。
「話が決まったら、そうしよう」
淀川龍太が言った。
「じゃ、おれは、これから出るぜ」
彼は、まっ先に人混みを分けて消えた。
「関川」
と、和賀は言った。
「君も行くのか?」
「行ってもいい」
関川は、答えた。
おりから、ステージには、新しい音楽がはじまっていた。 |