~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
ヌーボ・グループ (九)
「煙草をくれ」
関川は寝返り打って言った。
「はい」
傍の恵美子が素早く身支度をして、消したスタンドの灯をつけた。恵美子は、食卓に乗っている煙草の箱から一本抜いて口にくわえ、マッチをすって自分ですい、それを関川の唇にくわえさした。
関川は、仰向けになったまま煙草をふかしていた。
煙草をすいながら目をあけてる。
「何を考えてらっしゃるの?」
恵美子は、関川の傍に戻って横たわった。
「うむ」
やはり煙草をすったままである。
「いやな方。さっきから、ずっとそうだわ。お仕事のこと?」
返事はなかった。牌を混ぜる音が遠くから聞こえる。
「少々うるさいな」
「気になさるからそうなんだわ。わたしは慣れて平気・・・はい、灰が落ちます」
恵美子は、灰皿を手に取り、関川の唇から煙草を取って、灰を落し、また彼の唇に戻した。
「和賀さん、おいくつかしら?」
恵美子は、男の横顔を見て言った。
「二十八だろう」
「じゃ、あなたより一つ上ね。佐知子さんは、おいくつかしら?」
「二十二か三だろう」
関川はぼそりと言った。
「お年もちょうど似合いね。秋に結婚だって、何かの雑誌にのってたけれど、ほんとかしら?」
「やるだろうな、あいつのことだから」
興味のない声だった。枕もとのスタンドの加減で、光が彼の額と鼻の頭だけに薄く当たっている。
「佐知子さん新進の彫刻家だし、お父さまはお金持ちで有名だし、和賀さんは恵まれた方だわ。あなたも、そういう結婚なさったらどう?」
「ばかな」
吐き出すように関川は言った。
「おれは、和賀とは違うよ。あんな政略結婚なんかしない」
「あら、政略結婚かしら? 恋愛だって、雑誌に出てたわ」
「どっちでもおんなじだ。和賀の気持の中には、そういう出世主義が潜んでいるんだ」
「だったら、和賀さんの、いえ、あなた方のグループの主張と違うわね」
「和賀の奴は、一応、理屈を言っている。おれはどんなところから娘をもらっても決して妥協はしない。佐知子のおやじだって全然むこう側の人間だと言っている。むしろ、そういう結婚によって、かえってむこう側の内部がわかりから勇敢に戦えると、奴一流の詭弁を弄しているが、根性は見えすいているよ」
関川は、手を伸ばして煙草を灰皿に投げた。
「じゃ、あなたは、そんな結婚なさらないの?」
「ごめんだね」
「ほんと?」
恵美子は、男の胸へ手をまわした。
「恵美子」
関川重雄は、女に胸を巻かれたまま低い声で言った。
「このあいだのあれは、ぼくの言う通りにしただろうな?」
目を天井に向けたままだった。
瞳が動いていない。
「大丈夫よ」
彼はふっと息を吐いた。女は男に髪の毛を撫でられていた。
「安心してください。わたし、あなたのためなら、どんなことでもするわ」
「そうか」
「ええ、どんなことでも。そりゃ、あなたがいま大事な時だってことわかってるんです。あなたはもっと偉くならなければなりません。だから、どんな秘密をおっしゃっても、わたしにだけは大丈夫よ」
関川は体の向きを変え、彼女の頸の後ろに手を差し入れた。
「きっとだね?」
「あなたのためだったら、死んでもいいくらい」
「ぼくらのことは、絶対に人にさとられてはいけない。わかってるだろうね?」
「わかってるわ。必ず約束を守るわ」
関川の顔がふと暗くなった。
「今、何時だ?」
女は枕もとに置いてある腕時計を取って眺めた。
「十二時十分だわ」
関川は黙って起きた。
女はだまって男が身支度しるのを、諦めた目で見ていた。
「帰るの?」
男はシャツを着てズボンをはいた。
「わかってるんだけど、やっぱり、何かを言いたくなるの。時には泊まっていただきたいわ」
「ばかな」
関川は言下に小声で叱った。
「今、言って聞かせたばかりじゃないか。明るくなって、ぼくがこのアパートを出られるかい?」
「そりゃあ、、わかってるわ。でも、わかっていながら、そう言いたくなるの」
関川は、ドアの方に歩いて、細目にあけた。廊下には誰もいなかった。
彼は廊下に忍び出た。
牌を混ぜる音が、通りがかりの横のドアから洩れていた。
このアパートは、あいにくと手洗いが共同だった。
関川は往復とも用心した。廊下にはうす暗い電灯の光が当たっているだけである
2025/03/20
Next