~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (一)
国電蒲田操車場で発生した殺人事件は、所轄署に捜査本部を置いてから、早くも一ヶ月経った。
捜査は完全に行きづまっていた。本庁の捜査一課からの応援捜査員が八名と、地元署の捜査員十五名が、この捜査にかかり切ったのだが、有力な手がかり一つ掴むことが出来なかった。
捜査は厚い壁にぶつかったまま、身動きが出来なくなった。
すでに、事件後、二十日を過ぎた頃から、本部の士気は沈滞しはじめていた。あらゆる聞き込みも地取りも、、洗えるものは全部洗ってしまって、何もなくなっている。
そのころ、警視庁管内には凶悪な犯罪が続いて起こっていた。その方の捜査が活発なだけに、蒲田の方はよけいに沈滞が増した。毎朝、本部から外に出掛けて行く捜査員の足取りも元気はなかった。
所轄署に設置された捜査本部は、事件が迷宮入りになると、だいたい、一ヶ月ぐらいで本部がかりを解くことになる。あとは任意捜査となるのだが、事実上は打切りといっていい。
── その日の夕方、所轄署の道場に置かれた捜査本部室には、二十四五名の捜査員が、一堂顔を合せた。本部長となっとなっているのは、警視庁刑事部長だが、この日顔を見せたのは、副部長の捜査一課長と地元の警察所長とだった。
刑事たちは、元気のない顔で座っていた。各自の前には、湯呑み茶碗に酒がつがれていた。佃煮のような肴が皿に分けられて、ところどころに置いてある。
刑事たちの間には談笑の声がなかった。事件が解決して、本部を解散するときは、これは楽しい打上げ式なのだが、このようにお宮入りになっては、まるでお通夜のように湿っぽい。
「だいたい、全員が揃いました」
主任警部が集まった人間の顔を見回して、捜査一課長に報告した。
捜査一課長は畳の上に立ちあがった。
「皆さん、長い間ご苦労さまでした」
一課長ははずまない声で言い出した。
「本件は、捜査本部を置いて早くも一ヶ月経ちました。その間、諸君のご苦労は並たいていではなかった。不幸にして、ついに有力な筋をつかむことが出来ずに、一応、本部をひきあげることになりました。まことに残念な結果となりました。しかしながら」
と、課長は列席者に視線を一巡させた。一同は首をうなだれて聞いている。
「本件の捜査は、これで終わったというわけではなく、今後も引き続いて任意捜査を続けるわけです。この事件を反省すると、最初現場の条件があまりにも整いすぎていて、多少、それによりかかって、早期解決を期待しすぎたところがあります。被害者の身元こそわからなかったが、あれほどの条件の揃った状態だったから、まもまくこれも割り出せるだろうと安易に考えていたと思います。ところが、実際にやってみると、いっこうにそのことが解決出来なかった。被害者と加害者らしい男を見たという目撃者も出て来たし、犯行に使用された凶器も発見された。事件は簡単に解決に向かうものと思っていたが、諸君の努力にもかかわらずこのような結果になりました。それは、最初の捜査段階に少し安心してかかったというか、少し安易に考えていたという反省が現在の私に起こっています」
今西栄太郎は、捜査一課長の所感をうつむいて聞いていた。
課長の話しぶりは、わざと皆の気持を引き立たせるように元気そうだった。しかし、内容の空虚感は覆うべくもない。やはり、敗北者の弁だった。
捜査本部がひきあげると、あとは任意捜査となる。しかし、これまで捜査本部を解散した後、犯人が任意捜査であがった例はきわめて少ない。
近ごろは公開捜査が効果をあげている。だが、この場合は犯人が割れて、その顔写真を一般に掲示して協力を求める場合に限るのだ。今度の事件は犯人はおろか、被害者の身元すらわからないのである。
捜査一課長が言うように、事件当初はかなり資料に恵まれていた。それによりかかって安易に考えていたという課長の反省は、うなずけないことはなかった。実際、今西も事件のはじめは早期に解決するものと考えていた一人だ。
目撃者の言葉から「カメダ」という手がかりを得た時、ほとんど、事件は解決するものと思ったくらいだ。ことに「カメダ」については、今西はほかの捜査員より責任を感じている。「メダカ」という地名を割り出したのは彼だし、そのため遠路秋田県まで出張してきた。しかも結局徒労だったのだ。
こうなると、今西は「カメダ」が地名ではなく、やはり、最初の見込み通り、人の名前ではなかったかと思い直したいくらいだった。なるほど、秋田県岩城町亀田まで行って、妙な男のことを聞いては来たが、それが事件の筋と関係があるとは思えない。やはり、「カメダ」は人名が本当だったのではなかろうか。
しかし、今さらそこに戻っても詮ないことだった。失敗すると、いろいろな迷いが生じる ──。
捜査一課長の話が終わり、地元警察所長の慰労の言葉があった。内容は捜査一課長と大同小異だった。
そのあと茶碗酒を飲みながら、刑事たちは雑談に移った。しかし、話ははずまない。
これが事件解決の場合だと、一同が大きな声で笑いあうのだが、今日はそのこともなかった。みんなが黙りがちである。ただ後味の悪さと疲労の色が、皆の顔色に濃いだけだ。
活気のない宴はすぐに果てた。捜査一課長と署長とが早目に退席すると、みなもくずれるようにすぐに散会した。あとに居残って酒を飲む元気者もない。
2025/03/23
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