~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (二)
今西栄太郎は一人で帰途についた。もう、捜査本部を置いたこの警察署に、毎朝顔を出すこともないのだ。明日からは、また本庁の刑事部屋に戻るのである。
今西は蒲田駅の方に歩いた。街には灯がはいっている。夜にはいりかえた空には、澄んだ蒼い色が昏れ残っていた。
「今西さん」
ふと、後ろから呼ぶ者があった。
振り向くと吉村だった。彼は今西のあとを追って来ていた。
「やあ、君か」
今西は立ち止まった。
「今西さんとは、途中まで国電の方向が同じなんですから、ご一緒したいと思いましてね」
「そうだったな」
肩が並ぶと、二人は一緒に駅の方に歩いた。
ホームも混んでいたし、乗っていた電車も混んでいた。
今西と吉村とは、並んで立つことが出来なかった。ちょうど、ラッシュアワーで、車内は身動きもできない。
それでも、。吉村は、今西からあまり」離れない所でつり皮にさがっていた。
窓から、流れて走る東京の街を見おろしていた。ネオンはきれいな色で輝き出したが、乾いた景色だ。
吉村の降りる駅は代々木だが、今西の方は遠かった。
「吉村君」
今西は、渋谷駅が見えてから、大きな声で呼んだ。
「ここで降りよう」
吉村から応えがあった。
やはり混雑したホームに降ろされて、群衆を分けながら階段の降り口まで来ると、吉村が追いついて来た。
「どうしたんです、急に?」
彼は目を丸くしていた。
「いや、君ともっと話したくてね。その辺で一杯やろうと思って、急に思いついたんだ」
今西は混みあう階段を降りながら言った。
「引き止めて悪いかな?」
「いや、ぼくは大丈夫ですよ」
吉村は笑った。
「実は、ぼくも今西さんと、もう少し話したかったんです」
「そりゃありがたいな。なにしろ、このままでは家に帰れないよ。あんなお通夜みたいな酒を飲んで帰る気になれないからな。ちょっと、どこかで軽くビールでも飲み直そうか」
「結構ですな」
二人は、駅前の広場を渡って、小さな露地を入った。
この辺はごみごみした飲み屋が多い。軒に吊った赤い提灯にも灯が入っていた。
「この辺で君の知ったところがあるかい?」
今西は聞いた。
「いや、べつに馴染なないんです」
「じゃ、。出まかせに飛び込もう」
入口の狭いおでん屋に入った。まだ宵の口なので、客はそれほそいまかった。
二人は、隅の方の椅子に座った。
「ビールをもらおうか」
煮込みの鍋を突っついていた女将が、
「かしこまりました」
と、長い箸を持って頭を下げた。
ビールの泡をふくコップを二人はかちりと合せた。
「うまい」
今西は一息に半分飲んで言った。
「やっぱり君と会ってよかったな」
「ぼくもそう思います。なにしろ、これっきり今西さんと仕事の方ではお別れですからね」
「お世話になったな」
「とんでもない。ぼくの方こそ」
「何か頼めよ」
「はあ。じゃあ、丸天の串刺しをもらいます」
「君もそれが好きかい?」
と、今西は微笑した。
「ぼくもそいつが好きでね」
今西はビールを飲んで、ふっと肩で溜息をついた。
その様子を、若い吉村がそっと見た。
よそでは、捜査の話は禁物だった。二人は、なるべくそれに触れないようにしたが、話はどうしてもそれにゆく。
2025/03/24
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