~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (三)
だが、二人だけにわかるさりげない話や様子で、それは通じた。
「明日から本庁ですね?」
吉村はビールを喉に流して聞いた。
「そうだ。君には世話になったが、また久しぶりに元の古巣だ」
今西は串の丸天を食い取って噛みながら言った。
「すぐに別な捜査にとりかかるんでしょぷね?」
「そうなるだろうな。あとからあちから、われわれの仕事は耐えないからね」
新しい仕事に次々と移ってゆく。解決するものもあれば未解決のものもある。事件は絶えず彼らを待っているのだ。
「しかし、ほかのことをやっていても、やっぱりこういうものはいつまでも心に残るものだね」
今西はこの事件のことを言った。
「これで相当長い間働いて来たが、お宮入りのいなった事件も三つか四つある。古いには古い話だが、いつまでも頭の隅から離れないよ。何かにつけて、必ずそいつが顔を出す。ふしぎなものでね。解決したやつは、もう何も覚えていないが、未解決のもに限って、被害者の死顔をはっきりと覚えているからね。やれやれ、ここでまた夢見の悪いやつが一つ増えた」
「今西さん」
と、若い吉村が今西の腕を叩いた。
その話はもうよしましょうよ。今日は、仕事の上でご一緒したあなたとのお別れですから、さっぱりした気持で飲んで別れましょう」
「大きにそうだったな。すまなかった」
「しかし、今西さん。やっぱり、なんですね、都内を一緒に歩いている時よりも、遠くに行った時の方が印象に残りますね」
「そりゃあそうだ。やはり地方に行った時の方がいつまでも忘れられない」
「初めて東北を見たんですが、あの時の海の色はよかったですよ」
「よかった」
今西はその話題に微笑した。
「これで定年になって仕事から離れたら、のんびりと、もう一度遊びに行ってみたい所だね」
「いや、ぼくもそう思っていたところですよ」
「何を言う。君はまだ若いじゃないか」
「いえ、そんな意味じゃないんです。ぼくは今西さんと一緒に歩いた、あの亀田というところを、今度は、何にも束縛されずに、のんきに一人で歩いてみたいんですよ」
若い吉村の顔は、その気色を目に浮べるように、なつかしそいうにしていた。
「そうだ、あの時、今西さんの俳句を三つばかり聞かせてもらいましたな。あれからどうです?」
「うん、まあ、作るには作ったがね、十句ばかりだが・・・」
「ほう、そいつを教えて下さい」
「だめだめ」
と、今西は首を振った。
「まずい句を今ここで疲労しては、せっかくのビールの味が抜ける。そいつは、またのことにしようよ。ところで、君、もう一本取って帰ろうか」
今西は最後のビールを一本取った。
このころになると店の中も混雑してくる。客の話し声も高くなった。それだけ、こちらで話すのには都合がよくなった。
「今西さん」
吉村は上体をねじって今西に寄せた。
「蒲田の一件ですがね」
「うむ」
今西は素早く左右を見た。誰もこちらに気をつける者はなかった。
「加害者のネグラが遠くないという今西さんの推定ですがね。あれはぼくも、やっぱり本筋だと思いますね」
「君もそう思うか?」
「そうだと思いますよ。加害者は、相当、返り血を浴びていると思います。だから、遠くには行けないと思いますね。やはり、現場から近い所だと思いますよ」
「そう思って、ずいぶん探したんだがな」
今西はぼそりと言った。
「犯人はそのままの格好では、タクシーにも乗れません」
吉村はまだ話した。
「目撃者の話しによると、加害者はあんまり身なりがよくなかったといいます。事実、蒲田辺りの場末のバーで、安ウィスキーを飲んでいたのだから、たいてい生活程度は知れています。自家用車を持つような人間ではありまあせんよ」
「そうだろうな」
「すると、犯人はタクシーにも乗れなかったとすると、歩いて帰ったことになります。犯行時刻から考えて、街は暗くなっているから、気づかれずに歩いていることは出来ます。だが、歩くとなると、やはり、行動範囲の距離が限られています」
「それはそうだな。夜明けまで歩いても、人間の脚だから知れている。せいぜい遠くて八キロか十キロぐらいだろうね」
「ぼくはね、今西さん。こういうふうに思うんですよ。そういう格好で自宅に帰る男といったら、あんがい、ひとり者じゃないかと思うんですよ」
「なるほどね」
今西は、吉村にビールを注いでやりながら、ついでに自分のコップにも満たした。
「それは」新しい考え方だな」
「今西さんもそう思いますか? 血まみれの格好で自宅に帰れば、家族は怪しみます。当然これにも気兼ねをしなければならない。そういう点で犯人はひとり者で、しかも、あんまり近所づきあいのない男。そして、労働者ふう。こういう線が浮ぶのですよ」
「おもしろいね」
「今西さんの意見だと、男の方には別に自宅があって、犯人がその夜逃げ込んだのは、アジトだということでしたね?」
「ぼくの推定は、もう自信がなくなったよ」
「いや、いや、ご謙遜でしょう。しかし、今西さん。あなたの前ですが、もし、そういうアジトが考えられるとすると、それは、犯人の情婦か親しい友人の家ということになりますね。だが、犯人は、あまり裕福な男ではなかった。金を持たない人間です。だから、友人の点はともかくとして、その男に情婦がいたという考え方は、ちょっと、ぼくにはピンと来ないんですよ」
2025/03/24
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