~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (四)
今西栄太郎は吉村と別れて、一人で帰途についた。
家は滝野川にあった。バス通りに面しているので、そのたびに家の中が振動する。
女房は騒音に閉口して越したがっているが、適当な家がなかった。この家も住みついて十年ちかくになる。給料が安いので、高い家賃の家には引越せない。
十年前からみると、この辺は見違えるように家が密集してきた。古い家が崩されて新しい大きな建物になったり。空地にアパートが建ったり、まるきり変貌した。
今西のところだけ陽当たりの悪い低地なので、一握りの区域が昔のまま残されている。
今西は酒屋の角から露地を入った。
途中に安アパートがある。このアパートのために三年来、今西の家には全然陽が当たらなくなった。
露地を入りかけてふと見ると、引っ越しがあったらしく、運送屋のトラックがアパートの横にといまっていた。
大勢の子供がせまい道いっぱいに遊んでいる。
今西は建てつけが悪い格子戸をあけた。
「ただ今」
踵のすり減った靴を脱いだ。
「お帰んなさい。あら、今日はずいぶん、早いんですね」
奥から妻が笑顔で玄関に出た。
今西は、黙って奥に入った。奥といっても二間しかない。狭い庭に夜店で買った盆栽が並んでいる。
「おい」
今西は洋服を始末している妻に言った。
「明日から、もう、蒲田に行かなくていいんだよ。本庁に戻ることになった」
「おや、そうですか」
「これから、当分早い」
妻は今西の顔が赤いのにはじめて気がついたらしく、
「どこかで飲んでらしたのですか?」
と聞いた。
「吉村君と渋谷で降りてビールを飲んで来たよ」
「それは、ようござんした」
妻は夫の仕事のことには口を出さなかった。今西が話さない限り、女房の方から何も言わない習慣になっていた。
「坊主は?」
「さっき実家の母が来て連れて行きましたの。明日はお休みですから、明日の夜までに連れて来ますって」
「そうか」
女房の実家は本郷だった。両親とも健在で、あまり父親にかまってもらえない孫をふびんばっては遊ばせに連れ出して行く。
兵児帯を締めながら、濡縁に腰掛けた。外では近所の子供たちが騒ぐ声が聞こえる。
「おい」
今西は、ふと思い出したように、妻に聞いた。
「そこのアパートに引っ越しがあったのか」
「ええ、ご覧になったのですか?」
「運送屋が来ていた」
女房は今西の横に来た。
「そうそう、それでこの近所で聞いたんですがね、今度あのアパートに越して来た人は女優さんですって」
「へえ、変わった者が来たな?」
「そうなんです。誰が聞いて来たか知りませんが、そのことで、もうこの辺の噂になっています」
「あのアパートに越すくらいだから、ロクな女優じゃあるまい」
今西は片手で自らの肩を叩いた。
「映画女優じゃないんですって。新劇の女優さんだそうです。だから、あんまり、みいりがないんでしょう」
「新劇は貧乏だからな」
今西もそれくらいな知識は持っていた。
食事が終わった後、今西栄太郎は、ふと思い出したように妻に言った。
「今日は何日だったな?」
「六月十四日です」
「やっぱり十四日か」
「何ですか?」
「四の日だな。今日は巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日だ。久しぶりに行ってみるか」
「そうですね」
事件以来、今西栄太郎は家に早く帰ったことがない。妻は、すぐによそ行きの支度にとりかかった。
「夜店でまた盆栽をお買いになるんでしょ?」
いそいそと支度を終わって、妻は聞いた。」
「さあ、どうするかわからない」
「もぅ庭に置く所がありませんわ。なるべく買わないでくdふぁさいよ」
「うん、そうする」
今西は、実は気に入ったものがあったら買うつもりだった。今日から当分事件のことは忘れたい。
2025/03/24
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