~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (五)
都電を巣鴨で降りて、駅前の広い道を渡り、狭い商店街に入った。四の日がこの地蔵の縁日だった。
狭い通りの入口には、もう夜店の屋台が並んでいる。遅い時刻なので、人は帰りかける者が多かったが、それでもまだ混雑していた。
金魚すくい、綿菓子、袋物奇術道具、薬売りなどの店が、裸電球の眩しい光りに浮き出されて、人を集めていた。
今西夫婦は、細い道を歩いて地蔵堂に詣った。それから今度は、ゆっくり夜店をひやかしに回った。
今西は夜店のアセチレンガスの臭いが好きである。しかし、近ごろは、夜店も電灯が多く、アセチレンを使うのが少なくなった。
今かにいたころ、秋祭りの時、こういう店が出る。そのころのなつかしい思い出が、この鼻を刺激するガスの臭いの中に籠っている。
きれいな財布を並べた店や、地面にムシロを敷いた八つ目うなぎ売り、白い上衣を着た薬売りなどの風景を見ていると、子供のころの心にかえる。
今西は、ゆっくりと歩いた。ときどき立ち止まっては人垣の間から店をのぞく。夜店の素見は格別な気分である。
妻は、あまりそれに興味がないとみえて、そのつど道に立ち止まって、今西が人垣から離れるのを待ったりした。
植木屋の店も三四並んでいた。さまざまな鉢が電球に光っている。今西は、その前にt立ち止まった。妻が袖を引いたが、盆栽好きの彼は素通り出来なかった。それから鉢の並べてある前にしゃがんだ。
おもしろい木がいろいろと並んでいる。その中に欲しいものが二つ三つはあったが、妻との約束があるので、一つだけ買った。鉢植でなく、土の付いた根をそのまま新聞紙に丸く包ませた。片手でさげると、離れて立っている女房が諦めたように笑った。
「もう庭いっぱいですよ」
道々、妻は言った。
「どこか、もっと広い庭のある家に越さないと、並べきれませんよ」
「まあ、そう文句を言うな」
人びとの歩いているあとについて、元の巣鴨の駅の大通りに戻った
わずか一時間ぐらいだったが、結構、楽しかった。
このとき、大通りに人だかりがしていた。
巣鴨の駅前は都電の通りだが、その電車道の傍に大勢の人が集まって、何かを見ている。
交通事故だと人目でわかった。乗用車が歩道に乗り上げている。その後部はつぶれていた。一台のタクシーは五六間後ろにとまっていた。
巡査が五六人立って調べている。
外灯の光の中で、その光景が陰惨な感じで映し出されていた。巡査は、懐中電灯で地面を照らしていた。一人が道ばたに白いチョークで円を幾つも描いている。
「またやったな」
今西は、それを見て思わず言った。
「まあ、危ないわ」
妻も顔をしかめて見ていた。夫婦は、しばらくそこに立ち止まった。
「事故を起こしてから間がないらしいな」
今西は、歩道の上に半分乗り上げている車の中をのぞいた。それは自家用車だった。
中には人影がなかった。
──次に向うのタクシーを見ると、これも客も運転手もいなかった。
「みんな、病院に運ばれたらしいな」
今西は、見てつぶやいた。
「この調子なら、相当な負傷だろう」
「乗ってた人が死んでいなければいいですがね」
妻は眉をしかめていた。
今西は手の植木を妻に渡した。立っている巡査に顔見知りをみつけた。
今西は、巡査たちの前に行った。
「やあ、どうもご苦労さん」
巡査も、彼の方を見て、今西だとわかると、頭を下げた。
今西は、以前、巣鴨署に捜査本部が置かれた時に本部詰めになったことがある。それで、署員の中に顔なじみが出来ていた。
「大変ですね」
「ひどいもんです」
手帳を出して要領をつけていた交通係の巡査が、事故車を指さした。
「メチャクチャですよ」
「どうしたんですか?」
「スピードを出していたんですね。それに、うしろのタクシーがわき見をしていたらしいんです。前の自家用車がとまるのの気づかずに、そのままのスピードで突き当たったからたまりませんよ」
「で、負傷者はどうしました?」
「タクシーの運転手と客は、すぐに病院に運びました。ところが、追突された自家用車の方は擦過傷程度です」
「で、タクシーの怪我の程度は?」
運転手は前のガラスに首を突っ込んで、顔に大怪我しています」
「客は?」
「タクシーの客は、二十五六歳ぐらいの人ですがね。これも追突しや瞬間、したたか前の座席ににめって胸を打っています。一時、意識を失っていたようですが、病院に着いた時に回復したそうです」
「そりゃよかった」
死亡しなかったと聞いて、今西はほっとした。
「お客さんは、どういう人でしたか?」
「なんでも音楽家だと聞きましたがね」
巡査は答えた。
2025/03/25
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