~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (七)
和賀英良は、K病院の特別室に入院していた。
枕もとには、花束がいっぱい置いてある。果物籠や菓子なども積まれていた。病室に入った瞬間、その色の花やかさで目を奪われるくらいだった。
テレビもあるし、贅沢な設備だった。これで患者ベッドがなければ、高級アパートの一室と錯覚しそうだった。
和賀英良は、ベッドにパジャマ姿で腰掛けていた。その前で、新聞記者が談話を取っている。横からカメラマンが和賀の顔をいろいろな角度で撮っていた。
「当分、お仕事の方は、お出来にならないわけですね?」
新聞記者が質問した。
「ここに入ったのが、ちょうど、いい休養です。しばらく寝て暮らすつもりです」
「胸部を打たれたそうですが、痛みませんか?」
「そう、まだ鈍痛は取れないが、たいしたことはないんです」
和賀英良は微笑みながら答えた。顔色が少し蒼白くなっていた。
「そりゃ結構ですな」
と、新聞記者は言った。
「すると、その休養の間に、次の仕事をいろいろと考えられてるわけですね」
「いや、深刻には考えていませんよ。せめてこういう時に、解放された気持でいたいですね」
「しかし、和賀さんの芸術は直感的だし、抽象派ですかたね、こう寝ころんでいらっしゃる時に、何かすてきなイメージが浮ぶんじゃないですか?」
「そう」
和賀英良は、遠くを見る目つきで目を細めた。端正な輪郭の顔だった。
「そういうことはないとは言えませんがね。夜なんか、ここでぼくひとりでしょう。寝ころがっていろんなことを考えていると、ふいと、アイデアが出て来いない事もないんです」
「もし、それで次のお仕事が出来たら、交通事故の入院もまんざらではないというところですね?」
「そうなんです。だが、そう巧くいくかどうかですね」
和賀はおとなしく笑った。新聞記者は、枕もとを飾っている花束に目をやった。
「ほう、ずいぶん方々からきれいなのが来ていますね」
「ええ、まあ」
和賀の顔つきは、まんざらでもなさそうだった。
「やはり音楽関係の方からでしょうね。だいぶん、女性も多いようですね」
「なんとなくファンの人が持って来てくれたんです」
「ところで、今日は」
と、新聞記者はわざとあたりを見まわすようにして聞いた。
「田所佐知子さんはいらっしゃらないんですか?」
記者の目は興味的だった。和賀のフィアンセのことを冷やかしたつもりだが相手は動じない。
「さあっき電話がありましてね、まもなくここに来るでしょう。
「わあ、それはいけない。早々に退散しましょう。ところ、和賀さん、最後に、この花束を前景にして一枚撮らせていただきたいんですがね」
「いいですよ。どうぞ」
カメラマンが窮屈な動作で花束の間に埋まり、カメラを構えた。
新聞記者と入れ違いにドアはノックされた、入って来たのは、ベレー帽をかぶった背の高い男だった。
「よう」
片手に持った花束を頭の高さまで振った。
「どうした?」
画家の片沢陸郎だった。いつも黒いシャツを着ているのが、この男の習性だった。
「えらい災難だったな」
片沢は、ベットの横の椅子に腰をおろすと長い脚を組んだ。
「ありがとう、わざわざ来てくれたんだね」
和賀英良は友人に礼を言った。
「新聞を見た時は驚いたよ。どうかと思ったが、その格好を見て安心した。さすがに贅沢な部屋に入っているな」
若い画家は部屋の豪華さを見まわした。
「まるで病院の感じはしないね。おい、ずいぶん高いんだろう?」
彼は首を和賀の方に伸ばした。
「いや、そうでもない。もっとも性格にはいくらか知らないがね」
「なるほど」
若い画家は横手を打って叫んだ。
「君のペイではなかったね、佐知子さんの親父さんの出資だろう?」
にやりと笑った。
「そうでもないさ」
和賀は眉の間にうすい皺を立てた。
「ぼくも意地があるからな、全部、負担させてはいないよ」
「まあ、いいよ。金持からは出させるがいい」
片沢はそう言って、パイプに煙草をつめて、
「吸ってもいいかい?」
と断わった。
「かまわないよ、病気ではないから」
「しかし、君は幸福だよ。婚約者の親父がブルジョワなんだからな。いや、おれは皮肉って言っているのではない。君の芸術を認めた佐知子さんが羨ましいんだ」
片沢はそこまで言って、ちょっと首を傾けた。
「もっとも佐知子さんのは君の芸術ばかりではないだえろうね。アルファの方が多いかも知れん内」
「おい」
「いや、本当だ。それは田所佐知子という新進女流彫刻家の人格として、作曲家和賀英良を認めたということはわかるよ。だが、それだけではない。やっぱり、君の人格的な魅力が大いにおのえおいったと思うな」
「なに、ぼくはブルジョワなんか当てにしていないよ。彼らはいつどうなるかわからないからね。なにしろ、現代資本主義は没落過程をいそぎつつある。そんなものを当てにして、おれたち若い芸術家が前進出来るかと思うかい?」
「その意気はいいよ。だが、おれはときどき弱気になるよ。そりゃあ、おれの絵は、批評家にいろいろ言われていることは確かだよ。だがね、金のない批評家が、買いかぶってくれても、絵は一枚も売れないんだ。おれは、ピカソは認めないがね。いあつの絵が、莫大な金なることだけは羨ましいよ。早く、おれも、あんなふうになりたいよ」
「君らしいことを言う」
和賀英良は苦笑した。
「ところで、みんなどうしている?」
今度は、和賀英良が聞いた。
「うん、あれ以来会わないがね。みんなそれぞれ一生懸命にやったるらしい。会えば、何食わぬ顔をしているがね。そうだ、武辺がフランスに行くという話し、聞いたかい?」
片沢睦郎は、仲間の若い劇作家の話をした。
2025/03/27
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