~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (八)
「へえ、あいつがね」
和賀が驚いた目をした。
「この間、決まったそうだ。フランスからずっと北の方をまわるらしい。奴のいつもの持論だよ。北欧の劇をもっと再認識する必要がある、というやつさ。彼はもう一度、ストリンドベルやイプセンを見つめてみたい、と言ってるだろう。そこから未来の演劇を再構成しようというんだ。現代はあまりに近代劇の意味を忘れすぎている。奴の持論だが、その近代劇の自然主義を抽象観念に置き替えたら、また日本の新しい演劇の方向が出る、というんだ。そういう意味で、いよいよ奴の念願が叶ったわけだ」
「君だってそうじゃないか」
と、和賀英良は話を聞いてやり返した。
「北欧の画家にあこがれているのは君じゃなかったか。現代の抽象ばやりをもっと北欧のリアリズムに引き返して、そこからまた新しい理念の追求をはじめる。そして、それを止揚させる。なんとかいう画家だったかな。そうだファンダイクやブリューゲルが君の対象だったな?」
「ぼくなんか、どうじたばた騒いでも、外国へなんか行けやしない。そこへゆくと、君はいい」
「待ってくれ」
和賀英良は友人の画家に手を振った。
「そういちいち田所のことを打ち出すなよ。実は、まだ決まっていないから、誰にも黙っているがね。ぼくはこの秋、アメリカに行くかもわからないよ。この間から交渉があるん。おれの新しい音楽に目をつけた向うの音楽批評家が、ぜひ、アメリカに来て演奏してくれ、と言うんだ」
「へえ」
画家は目を丸くした。
「それは本当か?」
「いま言った通り、まだ具体化していないから、誰にも言っていない。こんなことが洩れると、マスコミはすぐ突っ走るからな」
「幸運な奴だ」
画家は、患者の肩を叩いた。
「そのアメリカ行きは、君の田所佐知子も、同行するのかい?」
「何ともわからないね。いま言った通り、まだ具体化してないんだから」
「そう慎重に用心ぶるなよ。君ほどの男が口に出すのだから、ほとんど具体的だろう。いいなア。それがたぶん君のハネムーンになるのかも知れないな。しかし、ぼくは思うな、武辺にしても、君にしても、そうしてどんどん外国に行って、自己の芸術の新しい発展の摂取をする。大いにやってもらいたい。ぼくらの“ヌーボー・グループ”が念願する日本の芸術革命が近いという感じだね」
「そううれしがるなよ」
和賀英良は止めた。
「ここだけの話だがね」
と、彼は声をひそめた。
「おれのアメリカ行きなど関川あたりが聞いたら、またなんと思うか知れないよ。おい、関川の奴どうしている?」
「関川か」
と、片沢睦郎は言った。
「関川もなかなかやっているよ。今度、二つの大新聞に文章を書いていたがね」
「ああ、あれは読んだ」
和賀英良は感動のない声で言った。
「関川らしい言い方だな」
「ここんところ、ちょいとした関川ブームだな。方々の雑誌にも長い論文を書いている、すっかりマスコミに乗ったかたちだ」
「だから、誰かに悪口を言われるんだ」
と、和賀英良は吐き出すように言った。
「ぼくら、マスコミというものを認めないだろう。軽蔑しているんだよ。ところが、関川ぐらいマスコミを利用している奴はいない。あいつ、自分ではマスコミを軽蔑する口吻をしじゅう洩らすくせに、本人ほどマスコミを利用している者はいない。おれたちのグループが悪口を言われるのも、関川があんなふうだからだよ」
若い画家は和賀の表情から何かを読み取ったらしく、もっともらしくうなずいた。
「そうだ、あいつ、少し思い上がりのところがある。近ごろ政治発言みたいなものも少々いい気になっているね」
「そうだ、この間の宣言でも、奴が一人で代表みたいな顔をして、みんなの署名をまとめてどこかに持って行ったんだろう。あれなんかも奴一流のジェスッチャーさ。あれも、自分の名をマスコミに乗せてもらいたいという、奴の下心が見え透いている」
「君と同じ意見を言った者がほかにもいると」
画家の片沢睦郎は同調して言った。
「あの会議では、奴のやっていることが不愉快になって途中で退席した者もいるよ」
「そうだろうな」
と、和賀英良はうなずいた。
「何となく、奴がヌーボー・グループの代表みたいな顔をしている」
和賀英良は、ここで、はっきりと不快な顔を見せた。
それに友だちの画家が何か答えようとした時、ノックが聞こえた。
2025/03/27
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