佐知子が片沢を廊下まで見送った。まもなく引き返して来ると、彼女はドアを軽くしめた。
二人は、別な眼になっていた。何秒か見合っていたが佐知子が和賀のところに急いで来た。
和賀英良は、佐知子を腕の中に受け入れた。佐知子の顔の上を、和賀の唇が押さえつけたが、それには、そのまま長い時間をかけた。唇を放すと、佐知子は、ハンドバックからハンカチを出し、男の唇を拭いてやった。女は満足のために溜息をついた。
「今日、お客さまは多かったんですの?」
佐知子は、うっとりした目で聞いた。
「そう、いろいろと来たね。片沢が来る前に、新聞社から来て話を聞いていった。そのあと、片沢と、君と、雑誌社だ」
「あら、わたしは別よ」
佐知子は抗議した。
「わたしは、その中に入らないわ。毎日、定期的に来るんですもの」
「ああ、そうか。とにかく、ここにいても、ゆっくりと休まれない」
「少しお断りになった方がいいのよ。病気ですもの。何とでも言えるわ。つまらない人と会って神経をいらいらさせるよりも、じっと寝てらして、お仕事のことを考えた方がよっぽどいいわ」
「そりゃあそうです。ども気が弱くていけない。これで、忙しくなったら困るだろうな」
「あら、その時は、わたしがマネージしますわ」
「よろしく頼みます」
「あなたったら、鈍重なところと、都会的なところと、同居しているにおね。そこが何となくチグハグになって、特別な性格になっているのね」
「鈍重ですか?」
「ええ、そんなところがあってよ。そのくせ、都会的なセンスが行きわたっているんです」
「つまり複雑なんですね」
「そうなんです。でも、それが和賀さんの魅力なんですもの」
「それはありがたい。どうなることかと思っていたが」
二人は声を合わせて笑った。
この時、卓上の電話が鳴った。佐知子が出ようとすると、
「いいです。ぼくが聞く」
和賀英良がいちはやく受話器を手に取った。
「はあ、和賀です」
作曲家は、電話に応えていた。
「はあ、はあ、ちょっと」
和賀の声を、田所佐知子は目をほかに向けて聞いていた。壁には、花を描いた油絵がかかっている。
「そうですね、ぼくはこういう状態ですから」
と、和賀英良は電話に話していた。
「最初の予定の期日には、間に合いそうにないが、公演までには、必ず間に合うようにしますよ、そちらで予定にしていただいて結構です。そこに誰かいるのでしたら、すぐに相談して、あとで電話してください。わかりましたね。では、さようなら」
和賀英良は受話器を置いて佐知子の方に顔を向けた。
「お仕事の電話?」
田所佐知子は微笑んでいた。
「そうなんです。前衛劇団から作曲を頼まれましてね。その芝居に音楽を付けようという趣向です。これも怪我をする前から引き受けたので、断わるわけにはいきません。その催促です。なにしろ、間に武辺が入っているんでね、義理に引き受けたんですよ」
「それで、構想はお出来になって?」
「いや、ぼんやりと頭にあったんですが、それからちっとも進まないんです。困ったものです」
「武辺さんなら、お断り出来るんでしょ?」
「いや、逆ですよ。友だちだから頼まれたのではかえって断われません」
「そう。でも、劇団の作曲っていうと、観客を意識して、相当妥協なさるんでしょ?」
「そうですね。武辺は、うんと思い切ったことをしてくれ、と言っていますが、そうもいかないでしょう、それに劇団は貧乏ですからね、ギャラも奉仕ですよ」
「そんなことは、なるべくお断りになった方がよろしいと思いますわ。いま、アメリカ行きのお話しがある時ですから、余分な仕事はなるべく断わって、そっちの方にエネルギーを集中した方がいいと思いますわ」
「おっしゃる通りです。ぼくの作曲がアメリカに買われ、アメリカで演奏される。これはチャンスだと思います。だから、これには全力を集中したいんです。これからはもう、音楽もヨーロッパ中心ではなくなりますよ」
「そうお考えになったら、なおさらですわ。そっちの方に、あなたの才能を振り向けてください。それで、アメリカの方のことは、都合よくいっていますの?」
「ええ、この間も連絡がありましてね、だいたい、話は進行しています」
「結構だわ。わたし、父にそれを話したんです。とても喜んでいましたわ。そして、渡米の費用も出してあげていいと言ってました」
和賀英良は目を輝かせた。
「そうですか。そりゃありがたいな。お父さまによろしく、とおっしゃってください。しかし、ぼくの作曲も、アメリカでは相当高く買ってくれると思うんです」
「だいたい、いつごろになりますの?」
「そうですね、十一月ごろには向うに発てるようにしたいと思いますね
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