~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (十二)
片沢睦郎はK病院を出て駐車場のところに来ると、向うからタクシーが病院の門の中に入り込むところだったが、急に、片沢睦郎の歩いている横で停車した。
片沢睦郎が驚いて目を上げると、タクシーの中から劇作家の武辺豊一郎が、窓から手を振っていた。
「やあ」
片沢睦郎も手を上げて笑った。武辺の横には別の男が座っている。
「君の和賀のところからの帰りかい?」
武辺は窓から首を出して聞いた。
「ああ、君は今からか?」
片沢はタクシーに近づいた。
「そうだ、これから見舞いに行ってやろうと思ってる」
片沢は首を振った。
「よせ、よせ」
「なぜだい?」
「今、田所佐知子が着ている。ちょうど、おれが話し込んでる時にやって来たから、かわいそうなので、おれが消えてやったところだ。行くのだったら、もう少しあとで行けよ。アテられるぞ」
「なんだ、そうかい?」
若い劇作家は舌を出した。
「じゃあ、降りよう」
ドアをあけて武辺は降りて来た。つづいて連れの男が降りた。これは片沢も知らない顔である。すらりとした格好でベレー帽をかぶっている。三十歳ぐらいの男だったが、片沢に目礼した。
「紹介しよう」
武辺は言った。
「この人はね、前衛劇団に所属する俳優さんで、宮田邦郎君だ」
「どうぞ、よろしく」
新劇の俳優は片沢におじぎをした。
「片沢です。絵をやっています」
「いや、お名前は存じあげています。武辺先生や和賀先生からお噂をうけたまわっております」
「そう、あなたは和賀をご存じなの?」
「いつぞ、ぼくが紹介したことがある。関川も一緒だったがね」
武辺がひきとった。
それで宮田邦郎が武辺について和賀のところに見舞いに行く理由がわかった。おそらく、武辺が病院に行くというので気軽について行く気になったのであろう。
「ここに立っていても仕方がない。ちょっとその辺でお茶でも飲もうか?」
武辺はあたりを見まわした。小さな喫茶店が真向いに見えた。三人は歩いてその店の中に入った。昼間の店は閑散だった。やはり、病院の見舞客らしいのが、二三人いるだけである。
「和賀の経過はどうだね?」
武辺は、おしぼりで顔をごしごし拭いて聞いた。
「衝突の時、前のシートで胸を打たれたというが、たいしたことはないらしいね。元気だったよ
「そうかい、何をやっていた?」
「あいかわらず、人が訪ねて来たりしていたが、今度、アメリカに行けそうだと言って、エラく張り切っていたよ」
ベレー帽をかぶった宮田邦郎という俳優は、二人の横につつましげに控えている。
「それにしても、和賀がタクシーに乗ったのはめずらしいな」
武辺はコーヒーを口に含んで言った。
「奴は自家用車を持って¥、しょっちゅう、運転しているくせに、なぜ、タクシーなんかに乗ったんだろう?」
「そうだね」
片沢は考えていたが、
「故障でもしたのかな?」
と、軽く言った。。
「そうかも知れないな。それとも交通違反で免許証を一時取り上げられたのかな。なにしろ、奴も相当スピードを出すからな」
と、武辺は言ったが、ふいと思いついたように、
「奴どこで事故にあったんだっけ?」
「巣鴨の駅前だそうだ」
「へえ、そんなところを何で通っていたんだろうな」
武辺は軽い疑問を起こしたように言った。
「さあ、そいつは聞かなかったがね。そうだな、そう言えば、何の用事であの辺を通っていたのかな?」
だが、その問題はそれきりになった。
「そのタクシーには、和賀が一人だけだったのかい?」
「そうらしいね、あれで田所佐知子が一緒だとおもしろいがね」
「バカだな、君は。田所佐知子が乗っていれば当り前だが、ほかの女が一緒だった方が、ずっとおもしろい」
「あ、そうか」
タクシーに乗って、女も一緒に怪我してみろ。和賀の奴、たちまち、田所佐知子と婚約解消になりかねない。これはおもしろいよ。惜しかったな、たった一人で乗っていたのは」
2025/03/30
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