~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
紙 吹 雪 の 女 (四)
係長との打合せがすんだ。今西は自分の部屋に帰るつもりだった。
だが、このまま、あの狭い、こみあっている刑事部屋に帰るのは、気が進まなかった。
彼は、建物の裏庭の方へまわった。銀杏の木が高いところで葉を茂らせている。光を含んだ眩しい雲が、その上にかかっていた。
今西は梢を眺めてぼんやりしていた。
今西は、まだ「カメダ」と「東北弁」に未練があった。
今西栄太郎は帰る前に吉村のところへ電話をした。
吉村は事件の起こった所轄署勤務だが、すぐに電話口に出て来た。
「吉村君かい、今西だ」
「どうも」
吉村は言った。
「この間は、ご馳走になりました」
吉村は、あれから一度今西の家に遊びに来ている。
「吉村君、君とさんざん苦労した、あの蒲田操車場の被害者の身元がわかったよ」
「そうだそうですね」
吉村は知っていた。
「今、署長さんから聞いたところです。そちらの係長さんから連絡が来ましてね」
「そうか、聞いたのか」
「岡山県の人間だそうじゃないですか?」
「そうだ」
「まるきり、ぼくらの見込み違いでしたね」
むろん、吉村も今西と組になっていたころから、東北とばかり思い込んでいる。
「見込み違いだった」
今西は憮然として答えたが、
「しかし、被害者の身元がわかったことはありがたい。きれからも、ぼくが、そっちの応援に行くことになるだろうから、また、君の世話になるかも知れないよ」
「ありがたいですな」
吉倉は電話口で喜んでいた。
「ぜひ、そうお願いしたいです。いや、また今西さんと組になったら、これは勉強になりますかあらね」

「何を言う、もうだめだよ。第一、この事件で最初からぼくの見込みが違ったじゃないか」
今西が自嘲すると、
「それはそうですが、これからの出直しということがあります」
吉村の方が慰めていた。
「とにかく、明日にでも会いたいな。どうせ、びくに、これをやれという命令があるだろうからね」
「わかりました。お待ちしています」
今西は、それからまもなく警視庁を出た。
家に帰ってからも、まだ、外は明るかった。日が長くなっている。もっとも、帰り方はいつもより早かった。
「お風呂に行ってらしたら?」
女房が言った。
「そうだな、じゃ、坊主を連れて一風呂浴びて来るか」
十歳になる一人息子の太郎は、珍しく早く帰って来た父と風呂に行くのが嬉しいらしく、はしゃぎまわっている。
2025/04/01
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