~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
紙 吹 雪 の 女 (十)
また、しばらく時間が経った。列車は浅川(現在の高尾)を過ぎて八王子近くになっていた。やれやれ、東京もすぐだと思って、村山が目をあげると、紳士が猪首を伸ばして、頻りと彼女の方に話しかけている。その態度が、ひどく愛想よかった。
紳士と、その若い女とは、話をかわしている。
ところが、おもに話をしかけるのは紳士の方で、彼女は短くうけ答えするだけだった。いつの間にか、紳士は彼女のまん前に体を移し。前屈みになって、話しに熱心になっている。
彼女は、それにちょっと迷惑そうだった。
もちろん、二人は知り合いではない。紳士があとから乗り込んで。席が一緒になったもおだから、退屈まぎれに世間話をしているというよころだった。ところが村山が様子を見ていると、どうも単純な雑談でもないらしい。
紳士の顔は、ひどく熱心なのだった。煙草を取り出してすすめたが、これは彼女の方で頭を振った。次には、チュウインガムを取り出して差し出したが、彼女は容易にそれを受け取らなかった。
紳士の方は、相手の遠慮とみてか、多少、強引なくらいにすすめる。ついに彼女も根負けしたように、それを手に取ったが、包み紙を破るでもなかった。
それからの紳士の態度がだんだん怪しくなってきた。彼は無造作に女の脚の方に膝を伸ばした。すると、彼女はびっくりしたように、脚を引っ込めて縮んだ。
それでも、紳士は気がつかないふりをして、伸ばした足をそのままにし、なおも何か話しかけている。
村山は、車中で若い女性が中年男に誘惑をかけられる話を、前から聞いていた。長い道中ならいざ知らず、大月から東京の間で、早くもこのような行動を起こす紳士に、彼は内心で憤慨した。もし、これ以上に彼女が迷惑したら、飛び出していく覚悟だった。だから本を読んでも身が入らなかった。絶えず向う側の座席の様子を観察していた。
彼女が、はっきり迷惑な顔を出しているので、さすがに紳士も、それ以上に露骨な態度を見せなかった。しかし、あいかわらず、彼女にいろいろと話しかけている。
汽車は立川を過ぎて、しだいに東京の灯に代わってきた。車内では、ぼつぼつ、網棚から荷物をおろす人もあった。
ずうずうしい男は、なおも話をやめない。荻窪駅が流れ去って、中野あたりを過ぎても、腰を上げようとはしまかった。彼女の方は、例の小型ケースとハンドバッグ以外に持っていないので、手まわり荷物の心配はなかった。それでも、中野あたりの街の灯が流れてくると、思い切ったように紳士に挨拶して立ちあがった。
すると、紳士も、それにつれて立ちあがったが、その時、彼女の方に近づいて、素早く何かをささやいていた。女の方は顔を赤くして、大急ぎで入口の方へ向かった。
村山がそこで見ていることは全然眼中になく、紳士は彼女のあとからすぐつづいた。
村山も本をたたんで立ちあがった。
新宿駅のホームに列車はすべり込んだ。
入口に歩くと、紳士は、女の背中にぴったりとくっつくようにして立っている。そして、そこで、なおも小声で話しかけているのだった。あきらかに、彼女をこれからどこかに誘いかけているのだった。
村山は、これ以上紳士が彼女にまつわったら、自分が騎士の役を買うつもりでいた。
列車は終着駅に停車した。


「こういうことがあったので、ぼくはその女を思い出したんですよ」
村山は川野教授に話した。
「そりゃ、おもしろいね」
教授は笑った。
「近ごろ、そういう連中がふえたそうだね。若い連中に負けずに年寄りも行動的になったものだ」
「ちょっと、あきれました。話はきいていましたが、実際に目で見たのは初めてです」
「しかし、その娘さんが、いや、娘さんかどうかわからないが、その若い女性が窓から紙吹雪を撒いていたというのはおもしろいね。君は無邪気だと言ったが、何かぼくは詩的な感じさえ受けるよ」
「そうなんです」
村山も同感した。
「そのあと、ああいう俗っぽいことがあったので、よけい腹に据えかねました」
「先方は、つまり、若い女性の方だね。君にははじめから意識がなかったのかね」
「なかったと思います。すれ違った時も、もし向うの方で気がついていたら、何とか目礼ぐらいはしてくれるでしょうがね」
「なるほど、銀座の夜、その女と君が出会っても、すぐには思い出さずに、本屋で君が、気がついたというのも変わっている」
教授は興味を起こしていた。
「村山君」
と、教授は呼んだ。
「ちょうど、ぼくは雑誌から頼まれた原稿があってね。随筆だがネタがなくて困っていた。今の話をいただくよ」
「こんなことが話しになりますか?」
「そこは、適当に潤色して何とか五枚ぐらいにデッチ上げるよ」
教授は手帳を出した。
「もう一度聞くが、それはいつごろかね?」
「そうですね。五月の十八日か十九日ではなかったかと思います」
「うんうん、なるほど、まだ窓をあけるほど暑くはないと言っていたね」
教授はその日付を手帳にメモした。
「先生」
村山は、ちょっと心配になった。
「ぼくの名前は出ないでしょうね?」
「安心したまえ。君の名前なんか出したってしようがない。これは、他人の話にすると弱い。ぼく自身が実見したことにしよう」
「そうですね。その方が読者が喜ぶでしょう。実は先生もその女性に思召しがあったといういふうにしたらどうですか?」
「ひどいことを言う奴だ」
教授は笑った。
「ぼくもいやらしい初老男の組だ。しかし、これでも行動派ではないから安心したまえ。ところで、村山君、君も車中で、あんがいその女性と二人っきりのとき、何かきっかけを作りたかったんじゃないかね?」
「そうでもありませんがね」
と、村山はちょっとテレたような顔をした。
「美人かい?」
教授は突然確かめた。
「まあ、美人の方です。ちょっと痩せがたで、すらりとした姿でした。愛くるしい顔でしたよ」
「うんうん」
教授は満足そうに手帳に鉛筆を走らせた。
2025/04/06
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