前衛劇団の事務員、成瀬リエ子は、アパートの自分の部屋に帰った。
二階の奥まった部屋だった。ポケットから鍵を取り出してドアを開ける。暗い中だったが、空気が自分の住居のものだった。越して来たばかりだが、やはり、外の空気とは違う。その空気に触れただけでほっとした。
六畳一間だが、新しいだけに便利に造られていた。リエ子はラジオのスイッチを入れた。隣室への気兼ねもあって、小さな声にした。音楽が鳴っている。
誰も居ないところだから、ラジオだけでも声を聞くと、孤独感が多少救われた。
ここに上がって来る時、」郵便受けを見たのだがハガキ一枚入っていなかった。
空腹を感じたので、トーストを焼いた。匂いが鼻に流れてくる。今まで誰もいなかった部屋が急にあたたかく感じられた。小さいながら生活が始まったのである。
沸かした紅茶でパンを食べた。それが終わって、しばらくぼんやりした。ラジオが音楽を流していたが、あまり好きなものではなかった。しかし、起きている間、ただ一つの声を消すのは寂しかった。
リエ子は行方に向かってノートを出した。日記代わりにときどきつけている。スタンドに灯を入れたが、すぐには書けなかった。頬杖をついて動かなかった。
何か、考えがまとまりそうでいて、それがすぐに崩れてしまう。容易に文章にならなかった。考えている方が長かった。
廊下に足音が起こった。自分の部屋の前にとまったので、思わず目をあげると、ドアにノックが聞こえた。
返事をすると、それが細目にあいた。
「成瀬さん、お電話ですよ」
管理人のおばさんだった。
こんなに遅く、と眉をひそめたが、管理人の好意には笑顔を向けた。
「どうもすみません」
おばさんの後ろについて廊下を歩いた。電話機は階下の管理人の部屋にある。
どの部屋のドアもしまり、スリッパが几帳面に置かれてあった。灯を消した部屋が多い。
「すみません」
管理人の背中に礼を言った。
その部屋をあけると、管理人の主人がシャツ一枚になって新聞を読んでいた。リエ子はその人にも頭を下げた。
送受器は、はずしたままで置いてある。
「もしもし。成瀬でございます」
リエ子は送受器を耳に当てて小さな声を出した。
「はあ? どなた?」
問い返していたが、先方の名前がわかってから、
「あら」
と言った。
しかし決して愉快な表情ではなかった。
「どういうご用事でしょうか?」
耳につけて先方の声を聞いていたが、
「だめですわ、それは困るんです」
と返事した。
そこに管理人がいるので、縮んだような遠慮した声だった。
成瀬リエ子が聞いている相手の電話の声は男だった。管理人も遠慮していたが、すぐ近くだから、自然と彼女の声だけは耳に入った。
「困ります」
成瀬リエ子はしきりと当惑していた。相手の男が何を言っているかよくわからないが、電話の様子では、何か申し込んでいるのを、断わっているふうにみえた。
彼女は、そこに他人がいるので、はっきり言えないらしい。自然と言葉は少なくなった。
電話はしきりと何か言っている。それに彼女が、
「いけません」
とか、
「困りますわ」
とか答えている。
電話は先方がついに諦めたのか三分ぐらいで切れた。
「ありがとうございました」
彼女は管理人に礼を言って、その部屋から出た。
憂鬱な表情だった。同じアパートにいる若い男が廊下で擦れ違った時、彼女の顔を覗くようにして通り過ぎた。このアパートでは、劇団の女優という噂が立っているせいか、好奇の眼で見られているようだ。
彼女は部屋に戻った。
浮かない顔でぼんやりした。
窓の外に夜が写っていた。遠くのネオンの灯がだいぶん消えている。そのあたりが新宿だった。
成瀬リエ子は、考えるように窓を見つづけていた。遠い灯の集まりが、にじんだように夜空の下に映えている。星の少ない晩だった。
リエ子はカーテンをしめ、机の前に戻って座った。
ノートを広げた。ペンを握ったが、すぐに書くでもない。頬杖をついて、しばらく思案していた。
ペンが動いた。
考え考え書いた。一行書いては、その上から筋を引いて消したりした。
── 愛とは孤独なものに運命づけられているのであろうか
と書いていた。
── 三年の間、わたしたちの愛はつづいた。けれど築き上げられたものは何もなかった。これからも、何もないままにつづけられるであろう。未来永劫にと彼は言う。その空疎さにわたしは、自分の指の間から砂がこぼれ落ちるような虚しさを味わう。絶望が、夜ごとわたしの夢を鞭うつ。けれども、わたしは勇気を持たねばならない。彼を信じて生きねばならない。孤独な愛を守り通さねばならない。孤独を自分に言い聞かせ、その中に喜びを持たねばならない。自身の築いたはかないものに、自分でとりすがって生きねばならない。この愛は、いつもわたしに犠牲を要求する。そのことにわたしは殉教的な歓喜さえ持たねばならない。未来永劫に、と彼は言う。わたしの生きる限り、彼はそれをつづけさせるのであろうか。
── 口笛が聞こえた。彼女はノートから顔を上げた。
口笛は調子を持っていた。それは窓の外を往復した。
彼女は立ちあがった。外も覗かないで電気を消した。 |