~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
方 言 分 布 (三)
今西栄太郎は以上のことを読んで顔を上げた。
この百科事典の記事は、少しも彼に役立たなかった。自分が漠然と考えていたことをこの回折は科学的に権威づけて説明してあるにすぎなかった。
結局、これからは、今西の思うような新発見はなかった。望みは断たれた。
「どうだったね?」
広報課長は、今西のがっかりした顔を見て言った。
「はあ、よくわかりました」
今西は頭を下げて答えた。
「何だか浮かない顔だな。満足出来なかったのかい?」
「そういうわけではありませんが、自分の考えているような何か手がかりがないかと思って、方言のことを確かめたかったのです」
「君が満足するのは、東北弁がよその地域にも使われているという事実のあることだな?」
「そうです」
今西はうなずいた。
「しかし、よくわかりました。これを読んでも、そんな事実のないことが納得出来ました」
「待ってくれ」
と、広報課長は何か思いついたような顔をした。
「この辞典は概略のことしかのっていないからな。そうだね、もっと詳しい専門書を見た方がいいかもしれないね。その中に、君の求めているものがあるかも知れないよ」
「そんな専門書を読んでもわかるでしょうか?」
今西栄太郎は、そんな本を読まない先からうんざりした。概略だというこの百科事典の記事だって、相当、やっかいである。それが専門書となると、もっと面倒で、気が重い。
「いろいろな本が出ているから、どれをとるかだろうがね。簡単に、端的にわかる本があると」いいのだがな」
広報課長は机の端を指で叩いていたが、
「そうだ、ぼくの大学時代の同期生が文部省の技官になっている。こいつが国語の方をやっているはずだから、もしかすると、そいつに聞けばわかるかもしてん。いま電話をかけよう」
広報課長は、今西があまり熱心なので、気の毒になったのか、そういうはからいをしてくれた。
「課長は電話を掛けて先方と話していたが、それが切れると今西に顔を向けた。
「奴が言うのには、自分のところへ来てみてくれ、直接に話を聞きたいそうだ。どうだね、照会してあげるが、行ってみるいかね?」
「はあ、参ります」
今西は即座に答えた。
今西栄太郎は、都電で一ツ橋に降りた。
暑い盛りを堀端の方に歩くと、古びた白い建物があった。小さな建物である。「国威国語研究所」の看板がかかっている。
受付に名刺を出すと、四十年輩の男が階段を降りて来た。
「今、電話をもらいましたよ」
と、彼は今西の名刺を見ると言った。
「何か方言のことでおききになりたいんだそうですね」
これが広報課長と同窓だったという文部技官桑原だった。痩せた、眼鏡を掛けた男である。
「どういうことをおききになりたいんですか?」
応接間ともつかずm会議室ともつかない所に、今西を引き入れて、桑原技官は聞いた。
今西は、広報課長にきいたのと同じことを、ここでも質問した。
「東北弁が東北以外で使われていないか、というわけですね」
桑原技官は、眼鏡に青空を半分映して言った。
「そうです。もし、そういう地域があったら、と思いまして伺いに参りました」
「さあ、どうでしょうか」
専門家は、頭を傾けた。
「そういう所はあまり聞きませんね。東北出身者がよその土地に移住して、そこで東北弁が使われているという例はないでもないですね。たとえば、北海道の開拓地で一村が移住したために、現在でも東北弁が使われているという所はあります。けれども、内地では、そういう所はないんじゃないですか」
桑原技官は、おとなしい声で説明した。
「そうですか」
今西は、最後の望みが切れたと思った。
「いったい、どういうことをお調べになるんですか? あなた方のことですから、何か事件に関係のあることでしょう?」
桑原技官は聞いた。
「はい、実は、こういう事件があって、それでおたずねしているわけですが」
今西は、ここで事件のあらましを述べて、蒲田の安バーで話されていたという東北弁のことを説明した。
技官は、しばらく考えていたが、
「それは、はっきり、東北弁だったでしょうか?」
と聞いた。
「目撃者といいますか、横でそれを耳にしていた人の話では、東北弁らしいと言うんです。短い会話ですから、正確には実際かどうかわかりませんが、五人の人間がみんな東北弁らしかったと述べているんです」
「そうですか。それは、東北から来た人が、そのバーで話していたのじゃないですか?」
技官は当然の質問をした。
「一時は、そういう場合も考えました。しかし、それからいろいろ調べてみると、どうも東北ではないような気がしてきたのでえす。実際、その二人の中の一人が被害者だったのですが、その身元が割れてみると、その人は東北でもなんでもなく、逆に岡山県の人だったのです」
「なに、岡山県?」
技官は、ひとりごとをつぶやいた。
「岡山県で、東北弁に似た言葉は使われないがな」
やや考えていたが、
「待ってくださいよ」
と立ちあがった。
桑原技官は戸棚の方に歩いて、その中の一冊を引き抜いた。
彼は、そこで、しばらく立読みをしていたが、今西のところに戻って来た時の顔はひどく嬉しそうだった。
「これは、中国地方の方言のことを書いた本ですがね」
技官は厚い本を今西の方に見せた。
「あなたは、岡山県とおっしゃったのですが、これには岡山県ではないが、ちょっと、おもしろいことがのっているのです。さあ、ここを読んでみてごらんなさい」
今西は技官の表情から、彼が何かを発見したことを直感した。それでさされた文字を期待を持って読んだ。
2025/04/09
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