~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
方 言 分 布 (七)
今西栄太郎は、東京下り急行「出雲」に乗った。
二十二時三十分発である。
いつもはだれかと一緒だったが、今度はひとり旅である。張込みやホシを受け取りに行くのではないので、気が楽だった。だから、というわけでもないが、女房が駅まで送ってくれた。
「向うには何時ごろ着きますの?」
妻の芳子はホームを歩きながら聞いた。
「明日の夜、八時ごろだろうな」
「まあ、二十時間以上ね。ずいぶん遠いのね」
「ああ、遠い、遠い」
「大変だわ、そんなに汽車に乗りつづけてお気の毒ね」
妻は同情した。
「今西さん」
この時、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、顔見知りのS新聞社の若い記者だった。
「どちらへ?」
新聞記者は、今西刑事が記者に乗ると知って、意味あり気に目を光らせた。
「ああ、大坂までだ」
今西は何気ないふりで答えた。
「大阪ですって、何です?」
新聞記者は顔色を動かした。
「親戚に結婚式があってね、どうしても行かなくてはならない、ほれ、このとおり女房が見送に来ている」
新聞記者は今西の妻を認めて、あわてて頭を下げた。その代わり今西の言いわけを信じた。
「ぼくは、また何かホシでもつかまえに行くのかと思いましたよ」
新聞記者は笑った。
「刑事がハコ乗りすると、君たちはいつもそうカンぐるんだね、人間だからね、ときに私用だってあるよ」
「そうですね、行ってらっしゃい」
新聞記者は手をあげ、ホームを歩いて過ぎた。
「油断がならないのね」
芳子が言った。
「今晩はおれ一人だからまだよかったんだ。これがこの前のように、吉村と一緒だってみろ、面倒なことになる」
今西は渋い顔で言った。実は、この前秋田に行った時も新聞記者に会っている。
汽車がホームを離れる時、妻は手を振った。今西も窓から首を出してそれに応えた。いつもと違って、本当に旅に出るという気持が起こった。
座席は空いていた。今西は芳子が買ってくれたポケット瓶のウィスキーを取り出して、二三杯飲んだ。
前に子供連れの中年女がいたが、もう、居ぎたなく後ろに寄りかかって眠っている。今西もしばらく新聞などを見ていたが、そのうちに眠くなってきた。
彼は横にだれも居ないので、座席に横たわって腕を組んだ。肱かけをしばらく枕にしていたが、後頭部が痛くなった。体の向きを換えたが窮屈である。国鉄の二等車は、客を楽に眠らせないような仕掛けになっている。
それでも、いつの間にか、彼は睡眠の中に入っていった。
夢の中で名古屋という駅名の連呼を聞いた。
無意識のうちに、また体が痛くなったので再度、向きを換えた。
2025/04/11
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